救国の李舜臣/康熙奉の朝鮮王朝人物史14

朝鮮王朝は1392年に始まってから、王の後継者をめぐって骨肉の争いがあったとはいえ、対外的に平和な日々を過ごしていました。1592年といえば、創設から200周年で記念すべき年だったのですが、お祭り気分は吹っ飛んで存亡の危機を迎えます。豊臣軍が攻めてきたのです。





都が陥落

朝鮮王朝でも、戦国時代を統一した豊臣秀吉が大陸制覇の野望を持っていることに勘づいていました。そこで、使節を派遣して日本の動向をさぐらせたのですが、帰ってきた使節の意見が真っ二つに分かれました。
「すぐにでも攻めてきます。国防に力を入れるべきです」
「攻めてこないから安心してください」
同じく日本に行った使節がまるで違うことを言いました。さて、どうすればよいでしょうか。
普通なら、「念のために国防を強化しよう」となると思うのですが、この当時の政権内部では激しい派閥争いがあり、「攻めてこない」と断言した使節が属する派閥が優勢だったのです。それで、「攻めてこない」という意見が通り、国防を強化しませんでした。すると、すぐに豊臣軍が怒濤のように攻めてきたというわけです。
日本の場合は、長く続いた戦国時代を経て兵が鍛えられていました。武器も強力でした。一方の朝鮮王朝は太平の世が続いて緊張感がゆるんでいましたし、兵も実戦で鍛えられていません。両国の兵力には、かなりの差があったのです。




朝鮮王朝は豊臣軍の攻撃を受けて都が陥落しました。当時の宣祖(ソンジョ)は北に向かって逃げました。序盤は豊臣軍の圧勝でしたが、朝鮮王朝も巻き返します。中国大陸から明が救援に来ましたし、各地で義勇軍が組織されてゲリラ戦法が功を奏しました。また、名将として有名な李舜臣(イ・スンシン)が海上で大活躍して豊臣軍の補給を断ちました。
特に、李舜臣が活用した軍船として有名なのが亀甲船です。この船は独特の形をして、甲板が亀の甲羅のように覆われています。「李舜臣の考案」という説がありますが、彼が亀甲船を使い始める約180年前に原型があったという記録が歴史書に残っています。実際には、李舜臣がその原型に改良を加えて実戦で使えるようにしたものと思われます。
亀甲船の特徴は以下の通りです。
○甲板の上を固い木板で覆って、亀の甲羅のように作ってある。甲板の上を覆う際には鉄板を使用していた、という説もあるが、今では木版を使っていたという説のほうが有力である。
○亀の甲羅のような船上に狭い十字路を作って乗船者が歩けるようにしてあるが、十字路以外には錐を全面的に置いて人が四方に歩けないようにしてある。これによって、敵が乗船して自在に動くことを防いだ。




○船首には龍頭を置いて、攻撃の他に煙幕を出せるようにしてある。
○帆をあげて海上を進むことができる一方、左右の船腹には砲穴の他に櫂を出せる穴がたくさん空いていて、櫂を使って進行することができた。
このような利点を亀甲船は持っていました。
豊臣軍の攻撃が近いことを察した李舜臣は、亀甲船の完成を急ぎました。戦中における彼の日々の記録である「乱中日記」によると、完成した亀甲船が進水したのは1592年3月27日です。その日記には次のように記されています。
「朝食の後、乗船して、召浦に到り、鉄鎖を横にして設置する作業を監督し、終日、柱の木を立てるのを見、それとともに亀甲船の砲を試射する」
このあと、亀甲船はひんぱんに試射を行なっていますが、試射の精度がかなり向上して李舜臣が実戦で使用できると確信したのは、4月12日でした。その翌日に豊臣軍の先陣が釜山に上陸していますから、亀甲船は本当に間際に完成したと言えます。
開戦から20日ほどで都の漢陽が陥落して朝鮮王朝は苦境に陥っていましたが、李舜臣に率いられた水軍が亀甲船を使って豊臣軍から制海権を奪い、日本側の補給体制を寸断しています。これによって豊臣軍の勢いは止まり、以後は戦線が膠着状態になります。
今でも李舜臣が「救国の英雄」と尊敬されているのは、存亡の危機にあった朝鮮王朝が李舜臣の活躍で息を吹き返したからです。その際に大活躍したのが亀甲船でした。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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