中宗(チュンジョン)は端敬(タンギョン)王后を離縁したあと、二番目の正妻として章敬(チャンギョン)王后と再婚しますが、彼女は息子を産んですぐに亡くなってしまいます。そこで、中宗は三番目の王妃として文定(ムンジョン)王后を迎えます。
悪政がはびこる
文定王后というのは、朝鮮王朝でも一番の悪女と言えるような人で、平気で非道なふるまいを繰り返しました。中宗が見て見ぬふりをしたのが、さらに文定王后を図に乗せたのですが……。
中宗と文宗王后との間には、1532年に息子が生まれます。この息子を文定王后は溺愛しましたが、中宗にはすでに章敬王后との間に生まれた長男がいて、文定王后の息子が王になる可能性はありませんでした。
それでも文定王后は絶対に引き下がりません。なんと、彼女は自分の息子を王にするために、中宗の長男を何度も殺そうとします。しまいには、長男の寝室に火を放って焼死させようとします。
それなのに、長男は継母である文定王后を怨んだりしません。むしろ、「母が自分を殺そうとするなら、儒教の教えにのっとって、孝を尽くすためにこのまま死んでみせる」と言って、火事になっても逃げないのです。
確かに親孝行なのですが、度を越えすぎています。やはり、放火されたらすぐに逃げなくてはいけません。
中宗は1544年に56歳で亡くなり、長男が12代王・仁宗(インジョン)として即位します。名君になる素質は十分だったのですが、仁宗は在位わずか8カ月で急死します。継母の文定王后に毒殺された可能性が高いと見られています。
実際に、文定王后を訪ねた際に餅を食べたのですが、その直後から重病になって命を落としています。朝鮮王朝では王が毒殺されたという疑惑がかなり多いのですが、仁宗の場合が一番可能性が高いといわれています。
いずれにしても、仁宗が30歳で亡くなったために、文定王后の息子が即位しました。それが13代王の明宗(ミョンジョン)です。
可愛い息子を念願の王にしたのですから、文定王后としてはさぞかし本望でしょうが、それだけで満足する女性ではありません。自分が明宗に代わって長い間政治を牛耳り、敵対勢力を根こそぎ粛清しています。
その反動で、国の政治は乱れ、賄賂が横行しました。16世紀なかばは朝鮮半島でも凶作が続いて餓死者が続出したのですが、それにかまわず文定王后は自分の勢力保持だけに腐心しました。
粛清と餓死で死んでいった人の数は膨大なはずです。その責任のほとんどが文定王后にありました。彼女は、1565年に世を去ります。母親が死んで明宗もようやく一本立ちする機会を得たのですが、それからわずか2年で明宗も息絶えます。
母親があまりに悪政をしたために、心がやさしい明宗はさぞかし心苦しかったのでしょう。明宗も、権力志向が強い王妃が暗躍する朝鮮王朝裏面史の犠牲者と言えるかもしれません。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)