清の人質になった昭顕(ソヒョン)はどうなったでしょうか。彼は長い抑留生活を経て1645年に戻ってきました。さぞかし、やつれているかと思ったら、そうではありませんでした。彼は清に居住している西欧人たちとも交流を深め、自分の世界観を広めて帰ってきました。仁祖(インジョ)への帰国挨拶のときも、いかに外国の文物が優れているかを力説しました。
父子の対立
すっかり人が変わったようになっている昭顕に対し、再会できた喜びも失せた仁祖は憤慨します。「次の王になるべき息子が清への怨みを忘れたばかりか、すっかり外国かぶれしている。こんなことで王朝を守れるのか」というわけです。
腹にすえかねた仁祖は昭顕に硯を投げつけました。親子の感激の対面も一転して険悪な雰囲気に包まれてしまったのです。
昭顕が急死したのはその2カ月後です。死因に不可解なことが多く、仁祖が昭顕を毒殺したのではないか、という噂が流布しました。その根拠になっていたのが、仁祖が昭顕の弟の鳳林(ポンリム)に王位を譲りたがっていたという事実です。
実は、鳳林も同じく清の人質になりましたが、彼は昭顕とは違って清を憎み続けていました。その点では父と同じ。屈辱を晴らしたいと考えていた仁祖が、昭顕より鳳林に後を託したくなったというのは、十分に考えられることです。
実際、仁祖は昭顕の葬儀をひどく冷遇しました。世子という立場だったのに、まるで末端の王族のような扱いでした。
しかも、本来なら昭顕の息子が世子を受け継ぐのが正統なのに、仁祖は昭顕の息子3人を流罪にして、世子を鳳林に変えてしまいました。これは、王位継承の原則を引っ繰り返すルール違反です。
また、「自分を毒殺しようとした」という嫌疑をかけて、昭顕の妻を死罪にしています。そこまでして、仁祖は昭顕の家族を滅ぼしたかったのです。
この仁祖は1649年に世を去り、鳳林が17代王・孝宗(ヒョジョン)として即位します。彼の諡には、朝鮮王朝が生活規範の中で最も重視した「孝」が入っています。息子としては、最高の名誉と言えるかもしれません。
実際、孝宗は父の屈辱を晴らそうとして、清への侵攻をずっと狙っていました。しかし、財政事情がそれを許さず、結局は40歳で世を去るまで満願を成就できませんでした。それで良かったのかもしれません。清は明に代わって中国大陸を支配する大国になっており、朝鮮王朝が太刀打ちできる相手ではなかったのです。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)