仁穆王后の怒り/康熙奉の朝鮮王朝人物史16

1623年、クーデターが起きます。リーダーになったのは綾陽君(ヌンヤングン)という28歳の若者で、宣祖(ソンジョ)の孫にあたります。自分の弟が光海君(クァンヘグン)の側近によって殺された怨みもあり、同じく光海君に怨みを持つ同志を集めて決起しました。





光海君の運命

怨みだけでクーデターを起こすと、大義名分がたちません。そこで、綾陽君がかついだのが、幽閉されていた仁穆(インモク)王后です。
クーデターを起こした綾陽君の仲間が仁穆王后に挨拶に行ったときのことが「朝鮮王朝実録」に詳しく出ています。それによると、仁穆王后は声を荒らげて次のように言ったそうです。
「幽閉されて10数年、今まで誰一人見舞いに来なかったのに、なぜ今頃になって来るのか」
仁穆王后の怒りももっともです。今まで周囲から冷たくされて、それが我慢ならなかったのでしょう。
クーデター軍としては、ぜがひでも仁穆王后をかつぎたいので、それまでの無礼を必死に詫びます。そのうえで、機嫌を直してもらって「光海君を撃て」と号令してほしいわけです。その願いが通じて、仁穆王后も承諾します。




クーデターは大成功しました。仁穆王后は幽閉されていた場所から王宮に堂々と迎えられますが、“10数年間、誰も見舞いに来なかった”と文句を言っていた人が一転して、「憎き光海君を惨殺せよ」と命令します。我が子を殺した怨みを晴らしたいのは当然のことです。
しかし、いくら追放したといっても、先の王を殺すというのは後世で大変な批判を浴びることが目に見えています。綾陽君も「先王を殺すことはできません」と何度も言うのですが、仁穆王后は納得しません。「光海君を殺せ」の一点張りです。
綾陽君は最後まで抵抗して、光海君を殺さず、島流しにしました。行き先は都からも近い江華島(カンファド)です。今の仁川(インチョン)国際空港のすぐそばです。
光海君の妻も廃妃となって一緒に島流しになります。その妻は船中で光海君に向かって「こんな辱めを受けたのですから、一緒にここで死にましょう」と迫ります。しかし、光海君は命を惜しみました。
島流しにあったあと、光海君の息子夫婦は逃亡に失敗して死罪になってしまいます。それを悲観した光海君の妻も首を吊って自殺します。




このように妻と息子夫婦は悲惨な目に遭いましたが、光海君は長生きしました。江華島の後に済州島(チェジュド)に流されます。この島は都から一番遠く、重罪人が流されるところです。光海君も、まさか自分がさいはての地に連れていかれるとは思っていませんでした。
周囲も気をつかって、船に幕を張って行き先がわからないようにしました。それでも、済州島に着けばすぐにわかります。
光海君は「こんなさいはての地にまで……」と言って慟哭しました。そばにいた役人は「ご在位中に奸臣に惑わされなければよろしかったのですが……」と言ってなぐさめるしかありませんでした。
それでも、光海君は済州島で長く暮らし、66歳で世を去りました。人の運命というものは、本当にわかりません。光海君は王宮を追放されてから18年間も生きています。ストレスから解放されて、実は「その後」を悠々自適に過ごしたのかもしれません。結局、彼は27人の王の中で4番目の長寿でした。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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