高句麗(コグリョ)の旧都・国内城(クンネソン)があった中国の集安(チバン)市に行くと、高さ6・39m、重さ37トンのとても大きな碑石を見ることができる。この碑石で讃えられているのが、高句麗19代王・広開土大王(クァンゲトデワン)だ。この石碑「広開土大王碑」は日本でも「好太王碑」として広く知られている。彼は、いったいどんな王様だったのでしょうか。
高句麗の領土拡大
広開土大王の本名は、談徳(タムドク)。広開土大王という名前は、死後に功績を讃えて送られた謚(おくりな)である。
その名には「広い領土を切り開き、国を平定させた王」という意味が込められている。
談徳は、幼い頃から体格に恵まれていて、13歳になるころには、父である18代王・故国壌王(コグヤンワン)の指導で、帝王学を学び始めた。391年、故国壌王が戦死すると、談徳は17歳で高句麗の王に即位した。
談徳は、王位に就いた翌年に4万の軍勢を率いて、百済(ペクチェ)に大攻勢を仕掛け、漢江(ハンガン)流域まで領土を拡張した。談徳の指揮する高句麗の勢いはすさまじく、百済の王・辰欺王(チンサワン)は戦うことを恐れ、無抵抗のまま10個の城を明け渡した。
南方の百済への侵攻で勢いづいた高句麗は、北方の中国大陸への進軍を開始した。気勢に乗った高句麗は、連戦連勝を重ね、領地をみるみる拡大していく。談徳はその生涯で、64個の城を落とし、1400余の村を領地にした。
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