一族を滅ぼされた元敬王后/歴史を面白く読む18

元敬(ウォンギョン)王后は、初代王・李成桂(イ・ソンゲ)の五男である芳遠(バンウォン)の妻で、夫を王にするために大きな働きをした女性だ。しかし、そんな彼女の人生は幸せなものではなかった。





朝鮮王朝一の功労者

1365年に高麗王朝の名門の家に生まれた元敬王后。彼女は、1382年に李成桂の五男である芳遠と結婚するが、それは朝鮮王朝建国のために有力な後援者を探していた李成桂が進めた政略結婚だった。
2人の夫婦仲は良く、力を合わせて朝鮮王朝の創設に尽力した。その甲斐あって1392年に朝鮮王朝が建国された。以降、芳遠は王の後継者となるために血のにじむような努力を重ねていく。
夫を王にしようと惜しまず協力した元敬王后。彼女は、政敵の急襲を芳遠に知らせたり、用意しておいた武器を渡してクーデターを成功に導いたりした。元敬王后ほど、夫を王にするために大きな働きをした王妃は他にいない。「内助の功」で言えば元敬王后が一番の功労者だった。
1400年に芳遠は3代王・太宗(テジョン)となり、元敬王后は王妃となった。しかし、2人の夫婦仲は、それまでの仲の良さが嘘のように冷え切ってしまう。




このとき、太宗には12人の側室がいた。彼は側室のもとにばかり通うようになり、元敬王后を敬遠し始めたのである。そのことに耐えられなかった元敬王后は太宗を批判した。
太宗が元敬王后を冷遇した理由は、「王朝を存続させるためには、外戚の力を弱める必要がある」と思っていたからだ。その対象になったのが元敬王后の実家である。太宗は、元敬王后の兄弟たちが大出世を果たしたことを脅威に感じていた。そのため、彼は1410年に王妃の兄2人と弟2人を処刑して、元敬王后の実家を没落させてしまった。
そのような悲劇を受けて、立ち直れないほど落ち込んだ元敬王后は、太宗に激しい憎しみを抱いた。
太宗の側近たちは元敬王后の廃妃を主張したが、彼は息子を4人も産んでくれたことや王になる過程で自分を支えてくれたことを高く評価していた。
元敬王后が産んだ息子は、長男の譲寧(ヤンニョン)大君、二男の孝寧(ヒョニョン)大君、三男の忠寧(チュンニョン)大君、四男の誠寧(ソンニョン)大君だ。




朝鮮王朝には「王の後継者は長男がなる」という決まりがあった。そのため、長男の譲寧が王の後継者に指名されるが、彼は頻繁に宮殿を抜け出すなどの行為を繰り返して後継者の座を剥奪されてしまう。さらに、二男の孝寧も僧侶となることで後継者の座を辞退した。それにより、幼いころからずっと本ばかり読んでいた聡明な三男の忠寧が王の後継者となった。
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