恨まれた神徳王后
8人の息子の中で、もっとも相応しいのは誰が見ても五男の芳遠であり、彼自身も後継者に指名されると思っていた。
しかし、太祖が指名したのは八男の芳碩だった。太祖は自分の決定に対して無理があると理解していたが、愛する神徳王后の願いをつめたく扱うことはできなかった。
芳遠はその決定にすさまじい怒りを示し、父にその決定を変更するように願い出たが、結局変わることなく、芳遠は神徳王后と対立してしまった。
その神徳王后は、自分の死が近いことを感じると、世子(セジャ/王の正式な後継者)の芳碩の命が危ないことを察し、芳遠の排除を画策するが、それが叶わぬまま1396年に世を去った。
時期を見ていた芳遠は、1398年に異母弟の芳蕃と芳碩を殺し、政権を自分の思うままにした。
そして、芳遠は1400年にようやく3代王の太宗(テジョン)として即位した。
すると太宗は、それまでの恨みを晴らすべく、都にあった神徳王后の墓を破壊し、王妃としての資格も剥奪した。生前の神徳王后をよほど憎んでいたのだろう。
時は流れて、18代王の顕宗(ヒョンジョン)の時代に再び神徳王后の墓が整備され、格式も王妃に相当するものに戻された。
神徳王后は死後250年の歳月を経て、復権することができたのである。
文=康 大地(こう だいち)
李成桂(イ・ソンゲ)はこうして初代王の太祖(テジョ)になった