光海君への復讐に執念を燃やした王妃/朝鮮王朝の人物と歴史28

仁穆(インモク)王后は、14代王・宣祖(ソンジョ)の二番目の正室となった女性だ。しかし、彼女の人生はかなり辛いものだったと言える。いったい彼女に訪れた不幸とはどんなのものなのか。

仁穆王后が幽閉されていたのは現在の徳寿宮で、写真は正門の大漢門

仁穆王后が幽閉されていたのは現在の徳寿宮で、写真は正門の大漢門



綾陽君が起こしたクーデター

1598年、豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰倭乱〔イムジンウェラン/文禄・慶長の役〕)が幕を下ろす。その2年後に正室を失った宣祖は、1602年に新たな正室を迎える。それが、まだ18歳の仁穆王后だった。このとき、宣祖は50歳だった。
それから4年後、仁穆王后は永昌大君(ヨンチャンデグン)を出産する。正室が産んだ初めての息子の存在を宣祖は可愛がり、ぜひとも後継者にしたいと考えていた。しかし、すでに後継者の地位には、側室から生まれた光海君(クァンヘグン)がいて、決定を覆すのは難しかった。
1608年、宣祖は2歳の息子を残して世を去った。仁穆王后は2歳の我が子が即位するのは不可能と判断し、光海君が15代王になることを認めざるを得なかった。
しかし、宮中では宣祖の希望をかなえようと永昌大君を王にしようとする動きが活発になり、側室から生まれた長男である臨海君(イメグン)までもが王位を狙う動きを見せていた。結局、光海君とその臣下たちは、臨海君と永昌大君を殺害する。さらに、先王の正室である仁穆王后は、王の母を示す大妃(テビ)の身分を剥奪されて、慶運宮(キョンウングン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉されてしまう。




光海君派の人間たちの強硬策はこれだけではなかった。彼らは王族の綾昌君(ヌンチャングン)の評判が高まると、彼までも排除してしまった。これが、後の動乱に繋がった。
1623年3月13日、綾昌君を殺害された兄の綾陽君(ヌンヤングン)がクーデターを起こした。ちなみに、綾昌君と綾陽君は、14代王・宣祖の五男である定遠君(チョンウォングン)の息子である。
綾陽君以外にも光海君に怨みを持っている者は多かった。彼らが一丸となって組織したクーデター軍。それを綾陽君が率いて重要な拠点を次々と攻め落とした。隙を突かれた光海君は、王宮を抜け出したが捕えられてしまう。
しかし、綾陽君は光海君を追放するために、誰もが納得するような正当性のある理由を示す必要があった。それがなければ、「私憤にかられて反乱を起こした」と言いがかりをつけられる可能性があるからだ。そこで、綾陽君は慶運宮に幽閉されている仁穆王后のところに使者を送った。
仁穆王后が幽閉されてから「10年の間に誰も見舞いに来なかった」という不平を聞いた使者は、彼女が怒っていることを綾陽君に伝えた。




綾陽君は、王宮に王族や高官を警護する儀仗兵を配置して仁穆王后を迎えようとしたが、彼女はそれに応じなかった。
その強硬な態度を知った綾陽君は慶運宮を訪れ、処罰を受ける覚悟を持って門の前でひれ伏した。そんな綾陽君に、「大きな功績を上げて、次の王となる者をなぜ処罰する必要があるのか」という仁穆王后の言葉が伝えられた。
その後、仁穆王后は綾陽君を中庭に通すことを許可した。彼女は中庭で泣いている綾陽君を見て、「泣かないでください」と優しい言葉をかける。しかし、クーデターの成功を確信して泣いていた彼は、自分が大きな罪を犯したことを謝罪した。
すると、仁穆王后は「幽閉されている間は、情報がまったく入ってこないようにされていたが、今日のような日が来るとは思っていなかった」と感激に身を震わせた。
その後は、王位継承に関することで話し合いが行なわれた。中でも仁穆王后が一番関心を示したのが、光海君の処遇についてである。
仁穆王后は、光海君に強い怨みを抱いていた。自分の息子である永昌大君を殺害されたあげく、慶運宮に幽閉されたのだから当然である。




彼女は、綾陽君に「この日が来ることを幽閉されてからずっと待っていました。光海君は私の手で処刑したい」と言った。
しかし、仁穆王后のその命令を実行するのは難しかった。なぜなら、今までに臣下の者たちが、追放された王を処刑したことがないからだ。それでも、仁穆王后は「私は必ず怨みを晴らさなければならないのです」と言った。
それに対して臣下の1人が、「11代王の中宗(チュンジョン)様が、10代王の燕山君(ヨンサングン)を廃位にしたときの事例を参考にしてみてはいかがでしょう」と述べたが、仁穆王后にとっては、燕山君の罪よりも光海君の罪のほうが重かった。その後も問答は続くが、彼女は光海君を斬首にすべきという主張を変えなかった。
一方の綾陽君は、いくら廃位にしたとはいえ、先王を斬首にすれば、大きな批判が起こることを知っていて、仁穆王后の主張を容認することはできなかった。
こうした仁穆王后の主張は、1623年に綾陽君が16代王・仁祖(インジョ)として即位した後も続いた。仁祖は彼女の言い分を聞かずに、光海君を江華島(カンファド)に流罪にした。
1632年、仁穆王后は世を去った。一方、多くの人から怨みを買った光海君は、最終的に済州島(チェジュド)に流され、廃位から18年後の1641年に世を去っている。
仁穆王后にとって、光海君の死を見届けることができなかったことが、一番の心残りだったことは間違いない。

文=康 大地(コウ ダイチ)

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