1876年、朝鮮王朝は日本と修好条規(江華島条約)を交わしたが、それをきっかけにして、朝鮮王朝はアメリカ、フランス、ロシアなどとも通商条約を結んだ。しかし、それらは外国の武力に威嚇されて結んだ不平等条約だった。
繰り返される政変
外国との交流が盛んになるにつれて、高宗(コジョン)は若い学者たちを日本に留学させた。その過程で朝鮮半島には日本の政治や経済の影響が及び、親日家も増えていった。しかし、それを受け入れられない勢力が生まれた。
彼らは追放された興宣大院君(フンソンデウォングン)をリーダーにして、結束を固めていく。
その勢力は、1882年になると閔妃(ミンビ)の暗殺を目的としたクーデターを起こした。このクーデターは、標的だった閔妃に逃げられたものの、政権奪取という目的を果たした。しかし、逃亡した閔妃もまた捲土重来を期していた。
「今は逃げるしかない。けれど、清の力を借りて返り咲いてみせる」
閔妃は清に助力を求め、王朝内で巻き返しをはかった。
それが成功し、今度は興宣大院君が清に捕虜として連行された。再び、絶大な権力を手にした閔妃だが、この一件によって清の言うことに逆らえなくなってしまい、朝鮮王朝は極端な親清政策に傾いていった。
こうなると、日本から多くを学んできた親日家の不満が大きくなっていき、王朝内では
親清派と親日派が対立するようになった。
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