思悼世子(サドセジャ)/朝鮮王朝人物紀行8

親子関係に亀裂が入る

荘献の反省文に心よくした英祖だったが、時が経つにつれて、「この反省文には心がこもっていない」という疑いを持ち始める。そんなある日、英祖は疑心感から荘献を呼びだして、反省の是非を再び問い詰めた。しかし、動揺した荘献は、しっかりとした弁明を行なうことができなかった。
重臣たちは荘献をかばったが、英祖は情けない姿をさらす息子を、さらに厳しく問い詰めていく。こうした極度の緊張の中で、限界に達した荘献は気を失ってしまう。すぐに医官が呼ばれて診察が行なわれたが、状態が良くないということで、その場はお開きとなった。
この出来事は、英祖と荘献の親子関係に大きな亀裂を入れる結果となってしまった……。それが引き金となって新たな事件が起きた。
1762年5月22日、東宮(トングン/世子が住む建物)で働く臣下の1人が、荘献が謀叛を起こそうとしていると訴えたのだ。それを聞いた英祖や高官たちの驚きは尋常ではなかった。謀叛は王朝にとっては一大事だ。すぐに英祖は、王宮の門をすべて閉じるように命令を出して、緊急事態を発令した。




その告訴を出した臣下は、英祖や重臣たちの前に引っ張り出された。すると彼は、荘献が起こした問題(非行、殺人、浪費など)が、10項目ほど書かれた書状を取り出した。
父親である英祖は、息子がそんなことをするとは信じられないと思い、重臣たちに「詳しく調査しろ」と命じた。義父である洪鳳漢は、荘献のもとへ向かい、謀叛の首謀者だと疑われていることを説明する。荘献は慌てて、英祖のもとを訪れた。
(ページ4に続く)

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