米びつで餓死した哀れな末路
荘献は王の寝殿に入って平伏して待つが、英祖は自らの怒りを鎮められず、なかなか荘献に会わなかった。
ようやく面会の場に現れた英祖は、声を荒げて息子に事態の真意を問いただした。しかし、荘献は地面に伏したまま何も答えない。さらに、英祖は「お前は国を滅ぼすつもりなのか」と叱責した。
荘献は弁解しようとするのだが、英祖はそうした言葉に耳を傾けず、息子に部屋を出ていくように言う。荘献は、仕方なく寝殿の外に出て、そこで再び平伏した。
もちろん英祖にも、息子である荘献を信じたいと思う気持ちがあった。しかし、例の告発以降も荘献の悪行が次々と出てくると、そうした思いも薄れてきた。そして、英祖はついにある決心を固めたのだった。
1762年5月13日、玉座の間に呼び出された荘献が目にしたのは、刀を構えた父の姿だった。
荘献は恐怖から父にひざまずくと、地面に頭をこすりつけて、ひたすら反省の意を示した。しかし、英祖はそんな息子に自決を命じた。
英祖の決定を多くの臣下が止めた。世子を処罰するなど、あまりにも行き過ぎた判断だからだ。
しかし、英祖は決定を覆すことはなかった。それは、荘献の息子である祘(サン)が「父を許してほしい」と懇願しても変わらなかった……。
こうして、英祖は荘献を世子から降格させて、自決するように言いつけた。
何度も自決を命ずる英祖だが、荘献は実行に移すことができなかった。業を煮やした英祖は、荘献を米びつの中に閉じ込めると、臣下たちに「絶対に開けてはならない」と命じた。
荘献が米びつに閉じ込められてから6日が立った5月19日、荘献が世子だったころに補佐して者たちは、みんな辞めさせられた。荘献の立場を明確にしたのだ。
閉じこめられてから8日目の5月21日、米びつの中で荘献が餓死していることがわかった。
息子が亡くなったことが、父親である英祖に知らされた。あれだけ荘献と険悪な関係だったのだが、英祖は意外にも息子の死を悲しんだ。
そして、息子の名誉を回復させた後に、「思悼(サド)」という諡(おくりな/死後に贈る尊称)を贈っている。この「思悼」には、「世子を思い、死を悼む」という意味がある。
また、思悼世子の息子である祘は、後に22代王・正祖(チョンジョ)として即位する。正祖は不遇な最期を負った父の身分を回復すると、先王として追尊しながら水原(スウォン)に華城(ファソン)を建てて、立派な陵墓を築いた。
さらに、正祖は父を死に追いやった老論派の主要人物たちを厳罰に処している。父の無念は息子がしっかりと晴らしたのだ。
「朝鮮王朝最大の悲劇」とまで言われる思悼世子の死だが、その真相には不明な点が多い。そうしたミステリアスさは、後世の作家たちに人気が高く、物語の題材として取り上げられる点も多い。最近でも、ユ・アイン主演映画『思悼』や、イ・ジェフン主演作『秘密の扉』などが、思悼世子の死に秘められた謎に迫っている。
文=康 大地【コウ ダイチ】
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