許浚(ホ・ジュン)は名著の執筆で多くの人命を救った!

許浚(ホ・ジュン)は1539年に生まれました。彼にとって宿命的だったのは、庶子(妾の子供)であったことです。朝鮮王朝時代は身分制度が厳格で、庶子は出世できないことになっていました。

医師として大成

庶子であった許浚は苦しい境遇を強いられたのですが、もともと卓越した才能に恵まれていました。
そんな彼が頭角を現すきっかけになったのは、1590年に世子だった光海君の天然痘を治したことです。
1592年に豊臣軍が攻めてきたとき、14代王・宣祖(ソンジョ)は都が陥落する前に北方に逃げますが、ずっと許浚が帯同しています。腕の良い医師として、王の信任がよほど厚かったのでしょう。
庶子出身で大出世した許浚は妬みの対象になってかなり足を引っ張られますが、それを乗り越えて医師として大成していきます。
1596年、許浚は宣祖から次のように言われます。
「わが国の医学書は中国の古典医学書を参考にしているが、風土も食べものも違う中でそのまま受け入れるのは無理がある。わが国に見合った医学書を作ってみよ」
壮大な著作を命令されたわけですが、この執筆はなかなか進みませんでした。多忙すぎた許浚には著作に集中する時間がなかったのです。
1608年に宣祖が亡くなると、主治医であった許浚は責任を問われ、中央での職を解かれて帰郷処分になります。
(ページ2に続く)

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