南海の孤島に流された光海君(クァンヘグン)の屈辱!(再読版)

本当に暴君?

朝鮮半島の南海に浮かぶ孤島の済州島(チェジュド)は、朝鮮王朝時代に流刑地として知られた。
ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』でも、濡れ衣を着せられて済州島に流されたチャングムが、そこで医療を学んで再起をはかるというストーリーになっていた。
実際に済州島に流された人の中で身分が一番高かったのは、15代王・光海君(クァンヘグン)である。




彼は長く暴君のように言われてきた。光海君に代わって王となった仁祖(インジョ)やその側近は、自分たちのクーデターを正当化するために、意図的に光海君の悪評をふりまいた部分もあったことだろう。
実際、光海君の言動を細かく記した『朝鮮王朝実録』で、彼は散々な書かれ方をしている。それが、光海君の人物像を決定づけたことは間違いない。
しかし、後世になって「光海君は暴君ではなかった。むしろ、政治的な成果が多い」という擁護論も出てくるようになった。
何よりも彼は、豊臣軍の攻撃によって荒廃した国土の復興に尽くし、王宮の再建や納税制度の改善などでも手腕を発揮している。暴君どころか、名君に列せられてもおかしくないほどの業績があったとされている。
ただし、王位継承の過程で実兄や異母弟を死に至らしめた点は弁解の余地がない。
光海君は結果的に、多くの人の恨みを買うことになった。致命傷になったのは、義理の母である仁穆(インモク)王后を冷遇したことだ。
彼女の大妃(王の母)という身分を奪ったうえで幽閉してしまったが、それは“孝”を最高の徳目と考える儒教社会ではあるまじきことだった。




この非道が、仁祖たちが起こしたクーデターに大義名分を与えたのである。
光海君に我が子を殺されてしまった仁穆王后は、クーデター成功後、仁祖に対して執拗に“光海君の殺害”を命令した。
『朝鮮王朝実録』によると、仁穆王后はこう言った。
「(光海君は)同じ空の下で一緒にいられない仇である。私が直接、その首を切り落としたい」「私のために復讐してくれるのが孝行というものではないのか」
「逆魁(光海君のこと)が母子の道理を破ったので、私は絶対に恨みを晴らさなければならない。これだけは、絶対に譲ることができないのだ」
仁穆王后は激烈な言葉を仁祖に何度もぶつけたが、仁祖は最後まで仁穆王后の言葉に従わなかった。先王を殺したりすれば、自分が後世で暴君扱いされることが目に見えていたからである。
結局、光海君は江華島(カンファド)に流され、後には済州島にまで送られた。当時の済州島は、さいはての地だ。
ここに流されるのは、重罪人ばかりだった。




護送を担当する役人も心得ていて、光海君が大きな衝撃を受けないように、船の周囲に幕を張って行き先の方向がわからないようにした。それでも、済州島に着けば、ここがどこかはすぐにわかってしまう。
光海君は「なぜ、こんなところまで……」と言ったきり絶句して、涙もかれるほどだったという。
済州島の役人も、よほど光海君を哀れに思ったのだろう。
「ご在位でいらしたときに、奸臣を遠ざけて、良からぬ輩が政治に関わらないようにされておられれば、こんな遠くまでいらっしゃることはなかったのですが……」
役人はこう言って光海君をなぐさめた。
済州島に来てからも、光海君は様々な屈辱に堪えた。見張り役のほうが格上の部屋を使ったり、世話役の女性に軽視されたりしても、彼は先君であった威厳を保ち、毅然と生き抜いた。
(ページ2に続く)

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