平然と王を侮辱!
朴彭年は、“秀才の中の秀才”と評された男で、学問と書に優れていた。彼は世祖の前に引っ張りだされたとき、世祖から「心を入れ替えて余に尽くすなら命を助けてやろう」ともちかけられた。
しかし、朴彭年は心変わりしない証拠として、世祖のことを「ナウリ」と呼んだ。これは「ダンナさん」に相当する呼び方であり、王に対する強烈な侮辱だった。
世祖は「そちは余の臣下ではないか」と朴彭年を問い詰めたが、朴彭年は「私は先王の臣下であって、ナウリの臣下を称したことは一度もありません」と答えた。
そこで、世祖は朴彭年が記した書状を徹底的に調べたのだが、確かに、朴彭年は呼称に臣下を用いず官職名だけを書いていた。どうしても“臣下”と書かざるをえないときは、“臣”の代わりとして“巨”という漢字を使っていた。そこに朴彭年の徹底した反骨精神があらわれている。
死六臣の場合、自分だけではなく、父、兄弟、息子も処刑され、家族の女性たちはこぞって奴婢にされた。一族が滅ぼされるのがわかっていても、彼らは最後まで固い意志を守り通したのだ。