中宗(チュンジョン)は結局は「代理の王」だったのか

燕山君(ヨンサングン)がクーデターで1506年に廃位となり、代わって異母弟の中宗(チュンジン)が11代王になった。彼は急に即位したが、それまで国王になるための帝王学を学んでいなかった。何の準備もなく王になってしまった中宗の苦悩がそこから始まった。





熾烈な政治闘争

燕山君に代わって王となった中宗は、自分なりに独自性を出そうとした。それで頼ったのが趙光祖(チョ・グァンジョ)であった。
趙光祖は、熱心な儒学者で真理の探求に精進する人物だった。心の清らかさを尊び、天命に従うという人としての理想を追い求めた。それだけに、趙光祖は誰よりも民の存在を尊重した。結果的に、燕山君を追放するクーデターを成功させた勲旧派たちと熾烈な政治闘争を繰り広げることになった。
中宗は趙光祖を全面的に信頼し、彼の勧める通りに政治を行なっていった。ただ、時間がたつと、徐々に窮屈な思いを抱くようになった。
「王は聖人でなければならない」
「王はあらゆる欲望を捨てなければならない」
そう執拗に語る趙光祖を中宗は次第に遠ざけるようになった。
実際、趙光祖は優秀な人物だったが、あまりにも純粋すぎた。




1519年、趙光祖は自分に賛同する士林派の若者たちを連れて中宗に直訴し、クーデターを成功させた成希顔(ソン・ヒアン)を厳しく糾弾した。
「成希顔たちが私腹を肥やしています。彼らは、自分たちの功績が大きいと我が物顔で語りますが、実際は天命に従ったのみ。しかも、民の思いが実った結果だったのです」
さらに、趙光祖は強固に主張した。
「今後は、成希顔たちから権力を取りあげるべきです」
いくら趙光祖の言葉でも、中宗はそのまま受け入れるわけにはいかなかった。
「臣下の者たちがもめてはいけない。それこそ国が混乱してしまうではないか」
こう言って、中宗は趙光祖の申し出を退けた。
(ページ2に続く)

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