初代王の太祖(テジョ)の五男だった芳遠(バンウォン)は、1400年に3代王・太宗(テジョン)として即位した。彼は、骨肉の争いを経て王になったので、自分の息子たちも世子(セジャ)の座をめぐり争うのではないかという不安を抱くようになった。
兄の決心
太宗は王族が私兵を持つことを固く禁止した。また、彼は素早く長男の譲寧(ヤンニョン)を世子に指名した。
太宗は世子を指名するだけではなく、早い段階で王位までも譲ろうとした。しかし、問題があった。太宗は長男の譲寧や二男の孝寧(ヒョニョン)よりも、三男の忠寧(チュンニョン)に王の資質を見出していたのだ。思慮深かった譲寧は、父のそうした考えをすぐに理解した。
しかし、一度世子に指名された以上、簡単にはその資格を捨てることはできない。悲痛な決意を秘めた譲寧は、捨て身の策を講じた。彼は無能な男のふりを始めたのだ。
譲寧は王宮をこっそりと抜け出しては、身分の低い者をお供に酒や女に溺れるようになった。譲寧のそうした放蕩ぶりは宮中でも批判のまとだった。太宗は譲寧を何度も叱りつけたが、一向に態度を改めないことで我慢の限界を迎えた。
「譲寧は王になる器ではない。奴から世子の資格を剥奪する」
こうして、太宗は世子選定を改めた。厳しい決断に宮中が動揺する中、二男の孝寧は次に世子になるのは自分だと思い、これまで以上に勉強に没頭した。
誰もが孝寧が次の世子になると確信していたある晩、夜通し本を読む孝寧の前に譲寧が姿を見せた。そこには無能と噂される面影はどこにもなく、真剣な表情を浮かべる兄の姿があった。譲寧は弟に向かい申し訳なさそうに、「父上が本当に王にしたいのは忠寧」と呟いた。
孝寧はその言葉の意味をすぐに理解し、兄の真意を知った。譲寧の思いに触れた孝寧は、自ら王位を辞退した。
1418年、忠寧は2人の兄の思いやりのもと世子に指名されたが、これには多くの批判が起こった。臣下たちは「兄が健在なのに弟が王になるのは間違っている」と声を荒げた。
譲寧と孝寧は、これ以上宮中にいるのは忠寧の邪魔になると感じていた。譲寧は1人静かに旅に出て、孝寧は頭を丸め仏門に入った。
忠寧は後継者に指名された2か月後、4代王・世宗(セジョン)として即位した。彼は後に「最高の名君」と称された。
文=李伯三(Lee Beksam)