朝鮮王朝では王の後継者を「世子(セジャ)」と呼んだ。世子は原則として王の正室から生まれた長男が指名されるのだが、その長男に問題があったり正室に息子がいなかったりした場合、側室が産んだ王の息子も世子の資格を得る。また、一度世子に指名されたら次の王になることが決定するのだが、権力闘争に巻き込まれて王になれなかった世子も存在した。そうした悲劇の世子たちの生涯に迫る。
太祖の八男
朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ)は、神懿(シンウィ)王后との間に6人の息子を授かった。神懿王后は朝鮮王朝建国より1年早い1391年に亡くなったが、息子たちは李成桂の大きな力となった。
神懿王后を失った李成桂だが、第二夫人だった神徳(シンドク)王后との間には2人の息子がいた(高麗時代には複数の夫人をもつことが許されていた。朝鮮時代になってからは一夫一婦制となった)。
1392年、李成桂は朝鮮王朝初代王の太祖(テジョ)として即位した。すでに50歳を越えていた彼は、即位するとすぐに世子を選ばなければならなかった。この時、神懿王后の息子たちは、6人の中から世子が選ばれるはずと思っていた。しかし、太祖が指名したのは、神徳王后との間に生まれた八男の芳碩(バンソク)だった。
太祖が芳碩を選んだのは、自分の息子を王にしたいという神徳王后が強く願ったからだった。七男の方蕃(バンボン)は、幼い頃から気性が荒く、王の器ではないと判断されていたため、当時10歳の芳碩が世子になったのだ。
この決定に神懿王后の息子たちは納得できなかった。すでに長男の芳雨(バンウ)が亡くなっていたとはいえ、太祖の王朝建国になんの働きもしていない異母弟が王になることが認められるはずがなかった。
特に、五男の芳遠(バンウォン)の怒りは凄まじかった。
芳碩が世子として指名された以上、兄弟に打つ手はなかった。しかし、芳碩を世子と認める臣下たちは、王朝きっての武力派だった芳遠の仕返しを恐れていた。特に芳碩擁護派の筆頭だった鄭道伝(チョン・ドジョン)は、なんとかして兄弟たちを亡き者にしようと策をめぐらせた。
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李成桂(イ・ソンゲ)はこうして初代王の太祖(テジョ)になった