正史とはいえ「端宗実録」の記述は偏っていた!

朝鮮王朝の正式な記録である「朝鮮王朝実録」に入っている「端宗実録」は、代表的な汚点と言える。元は、端宗(タンジョン)が身分を落とされたときの「魯山君(ノサングン)」という名が入った「魯山君日記」として編纂されたが、編纂の経緯どころか、その日時や編纂者の名すら記されていない。





一方的な証言と主張

後に6代王には端宗という諡(おくりな)が贈られ、「魯山君日記」も「端宗実録」に改称されるが、題が変わっただけで、本文では端宗は魯山君のままで、首陽大君(スヤンデグン)は世祖(セジョ)と書かれている。
確かに史官が記録したものだが、首陽大君側の一方的な証言と主張が混じっている。そのため、首陽大君が自邸で側近たちと交した会話まで詳しく書かれている。
ここで、「端宗実録」の内容を大きく四つに整理してみよう。そこで、書かれていることは以下の通りだ。
・端宗は幼く不安な王だった。
・金宗瑞など大臣たちが政権を握り、横暴を働いた。
・安平大君が王位を奪おうと大臣たちと結託していた。
・首陽大君は国を憂い、英雄的な行動でやむなく王座にあがった。
しかし、根拠となる事実があまりにも乏しい。たとえば、金宗瑞(キム・ジョンソ)の横暴というのは、彼が墓参りに出たとき彼を送りに民が大勢集まったとか、彼の息子たちが異様な昇進をしたことなどが根拠となっている。できるだけ金宗瑞を悪く書きたかったのが見え見えなのである。




当時、宰相の座にいた金宗瑞だけに、その権威は天も衝くようなものだっただろう。しかし、権力を握ったことが罪になるのではない。力がある人のまわりに人が集まるのは今も昔も変わらない。息子の昇進の問題も当時はよくあることで、それを金宗瑞の横暴とは言えないだろう。権力を持っている大臣なら、広い土地や田畑はもちろん、巨大な邸宅を何軒も持つのが当たり前のような時代だった。
しかし、金宗瑞にそんな財産があったという記録はない。これだけを見ても、金宗瑞がいかに素晴らしい臣下であったかがわかる。
むしろ、後で首陽大君を助けてクーデターを起こした側近こそが横暴を働き、それが引き金となって反乱まで起こったことを考えると、「端宗実録」がいかに偏った記録なのかがわかるだろう。

構成=「チャレソ」編集部

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