英祖は1776年3月4日に82歳で世を去った。その3カ月前から代理聴政をしていたのは世孫だったので、朝鮮王朝の正式な法にのっとって世孫が次の王に決定した。ここにイ・サンこと正祖(チョンジョ)が誕生したのである。
思悼世子の息子
正祖は1776年3月10日に慶熙宮(キョンヒグン)で即位式を行なった。彼は重臣たちに謁見(えっけん)した席で堂々とこう言った。
「寡人(クァイン)は思悼世子(サドセジャ)の息子である」
この言葉がもつ意味がどれだけ深いか、それを一番よく知っていたのは老論派の重臣たちだった。
まず、“寡人”というのは、もちろん正祖自身のことである。王というのは国に一人しかいないという意味で“寡人”という言葉を使ったのであろう。
次に、“思悼世子の息子”とわざわざ言い切った真意をさぐってみよう。
思悼世子は英祖によって罪人として処罰されたので、正祖をそのまま息子にしておいては次の王に就けることはできなかった。そこで英祖は、正祖を考章(ヒョジャン)世子の息子として養子縁組をさせた。この孝章世子は英祖の長男で思悼世子の兄なのだが、1728年に9歳で亡くなっていた。つまり、英祖は伯父の養子として世孫の立場を守り抜いていたのである。
当然ながら、正祖の父は孝章世子であって思悼世子ではない。それが朝鮮王朝の公式的な立場だった。
しかし、正祖は即位当日にあえて「自分は思悼世子の息子だ」と言い切った。これは“実父の死に関係した者を断罪する”という意味を含んだ言葉だった。だからこそ、それを聞いた老論派の重臣たちは震え上がったのである。
実際、即位した正祖がすぐに行なったのは、思悼世子の名誉を回復することだった。墓の格式も王の父にふさわしいように改められた。
「この瞬間をどれだけ待っていたことか。父の無念を晴らすために、苦しいことにも耐えてきたのだ。今こそ、父に孝を尽くすときだ」
しみじみとそう思った正祖は、次に父を陰謀にはめた者たちを徹底的に処罰した。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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