『ヘチ』でチョン・イルが演じた英祖の人生は波瀾万丈だった!

孫のような娘と再婚

英祖を悩ませたのが、「景宗毒殺の首謀者」という噂だった。実は、景宗の具合が悪くなったとき、侍医が「食べ合わせが悪いので差し上げてはいけません」と制止するのも聞かず、英祖は景宗にケジャン(蟹を醤油漬けにした料理)と柿を食べさせた。
さらに、侍医が「いけません」と言ったのに英祖は景宗に人参の煎じ薬を処方した。の後に景宗は息を引き取った。英祖は、疑われても仕方がないような状況を自らつくってしまったのだ。
彼はなぜ、侍医の制止を振り切って逆効果を生んだ処方をしたのか。
その真相は謎に包まれている。
1735年、英祖の二男の思悼世子(サドセジャ)が生まれた。幼い頃から頭脳明晰で天才的な学力を備えていた。すでに長男をなくしていた英祖は二男に大いに期待したのだが……。
英祖の正室だった貞聖王后が、1757年に65歳で亡くなった。英祖との間に子供はいなかった。




1759年、英祖は二番目の正室として貞純(チョンスン)王后を迎えた。彼女は14歳だった。
65歳だった英祖とは、なんと51歳の年齢差があった。
1762年、刀をふりかざして怒りまくった英祖は息子の思悼世子を米びつに閉じ込めて餓死させてしまった。
思悼世子の素行の悪さを周囲から吹聴され、後継者にふさわしくないと判断して厳罰に処したのだ。実際、英祖の頑固でかんしゃくもちの一面が悲劇につながってしまった。
しかし、思悼世子が餓死したあと、英祖は自分の行ないを悔やんだ。
「なぜ、息子が生きている間に許せなかったのか」
それが英祖の生涯の悔恨となった。
1775年、英祖は思悼世子の息子の正祖(チョンジョ)に代理聴政(摂政)をさせようとした。
重臣たちを集めてこう言った。
「気力が衰えてきて一つの政務をやりとげることも難しくなってきた。こんな状態で最後までやり抜けるだろうか。国を治めることを考え始めたら、夜もまったく眠れないほどなのだ」




80歳を過ぎて、英祖はここまで弱気になっていた。
しかし、重臣たちの中には強く反対する者もいた。
すると、英祖は王を守る軍隊を正祖に付けることを断言して代理聴政を強行した。
この強攻策が功を奏し、もはや反対する者はいなかった。
英祖は1776年に82歳で世を去った。朝鮮王朝の27人の国王の中で、英祖は一番長く生きた国王であった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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