朝鮮王朝は儒教を国教にしたが、この場合の儒教とは具体的に“朱子学”のことであった。朱子学は、中国の宋代に興った儒教の一派で、朱子(1130~1200年)によって集大成された。
非常に理屈っぽい学問
それまで教訓的な説話が多かった儒教の世界に哲学的な深みを持ち込んだのが朱子学である。いわば、朱子学は儒教の理論化に大きく貢献したのだ。
この朱子学が朝鮮半島には高麗王朝の後期に伝わっており、支配層の間で徐々に受け入れられるようになっていた。
朝鮮王朝は開国当初からこの朱子学に注目し、人々を統治する際の精神的支柱として活用した。
特に、政治と制度を実際に取り仕切った両班(ヤンバン/朝鮮王朝の貴族階級)にとって、高尚な人間が民を治めることを認める朱子学は重宝できた。いわば、体制維持の根拠を与えてくれる“お墨付き”でもあったのだ。
また、朱子学が全土に普及するうえで大きかったのは、科挙の試験科目に朱子学の教義を問うものが多かったことだ。官職を求める利発な若者たちがこぞって朱子学を熱心に学ぶようになり、その影響力は飛躍的に高まった。
ただ、朱子学一辺倒の風潮は、視野の狭い人間を数多く世に出してしまった。非常に理屈っぽい学問をみんなが一斉に学んだがゆえに、他の多様な学問を許さないような空気が生まれるに至ったのだ。
朝鮮王朝の病巣とも言われた“党争”にしても、自己の主張に凝り固まった一派が他の流派の存在を否定し続けるところから深刻さを増していった。朱子学が、寛容でない政治闘争を生み続けてしまったことも事実なのである。
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