朝鮮王朝を建国した初代王・李成桂/朝鮮王朝の人物と歴史8

1392年に朝鮮王朝を建国したことで知られる李成桂(イ・ソンゲ)。もともと高麗の武将だった彼がどのようにして王となったのか。高麗の滅亡から朝鮮王朝の始まりについての過程を見ていこう。
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高麗の滅亡

高麗の武将だった李成桂は、倭寇の軍を撃退するなど戦功を次々にあげるなど、戦いの中で力を発揮して、高麗最高の武将の1人になった。
1388年、中国大陸の大国・明が高麗を何度も威嚇してきた。そのことに頭を痛めていた高麗の王・禑王(ウワン)は、明と戦うことを決意した。しかし、李成桂は「小国が大国に逆らってはいけない」などの意見から反対するが、禑王はその訴えを受け入れなかった。しかも、李成桂はその遠征軍の大将にされてしまう。
さすがに王命には逆らえず、李成桂は大軍を率いて出発したが、途中で雨に降られて鴨緑江(アムノッカン)の下流にある威化島(ウィファド)で足止めされてしまった。その雨が長く続いたため、兵士の士気は目に見えるように下がっていく。そんな状況の中で、李成桂が下した決断は、「全軍を引き返して、高麗に狙いを定める」ことだった。
勢いに乗って攻めてきた李成桂の軍を、高麗の他の武将たちは止めることができず、高麗の都である開城(ケソン)はあっという間に制圧されてしまう。この事件は「威化島回軍(ウィファドフェグン)」と呼ぶ。




その後、高麗の実権を握った李成桂は、禑王を追放して傀儡の王を据えるなど、高麗内部での政治基盤を盤石にする。こうして、敵対勢力を排除した李成桂は、1392年に朝鮮王朝を建国して初代王として即位した。
1394年、李成桂は都を開城(ケソン)から漢陽(ハニャン/現在のソウル)に移して、基盤を固めた。その1年後の1395年には正宮である景福宮(キョンボックン)の建設を始めた。
順風満帆な国造りを進める李成桂だが、彼はすでに54歳で後継者の選定も急がなければならなかった。
当時、李成桂には先妻から6人、後妻から2人の計8人の息子がいた。誰もが、建国の功臣として活躍した先妻の息子から王を選ぶと思ったのだが、なんと李成桂はまだ幼い八男の芳碩(バンソク)を跡継ぎに決定した。
これには、先妻の息子たちからも大きな不満があがった。特に、もっとも活躍した五男の芳遠(バンウォン)は、怒りを露わにした。
八男の芳碩が後継者に指名されたことが許せなかった芳遠。そんな彼の動向を警戒したのが、李成桂の側近である鄭道伝(チョン・ドジョン)だ。彼は、先妻の息子たちが「後継者の座を狙う可能性がある」と考えて、先手を打って排除しようとする。




しかし、鄭道伝の企みは芳遠にバレていた。彼は兄弟たちを全員助け出すと、この一件を口実に、逆に鄭道伝と異母弟の2人を殺害してしまった。これが「第一次王子の乱」である。
愛する子を失った悲しみからか、李成桂は政治への興味を失って1398年に退位した。こうして、実権を握った芳遠だが、彼はそのまま即位すれば王位簒奪の汚名を被ると思って、二男の芳果(バングァ)を次の王に推薦した(長男の芳雨(バンウ)はすでに亡くなっていた)。こうして、芳果が2代王・定宗(チョンジョン)となって、芳遠は軍事力を掌握して影の王として君臨した。
1400年、王位に野心を燃やした四男の芳幹(バンガン)が王位を狙うクーデターを企てるが、強大な力をもつ芳遠には敵わなかった。これが、「第二次王子の乱」である。
争いを鎮圧した芳遠は、芳果から王位を引き継いで、ようやく3代王・太宗(テジョン)として即位した。
李成桂の建国した朝鮮王朝。その幕開けは、彼の息子たちによる骨肉の争いが頻発した悲しいものだった……。

文=康 大地(コウ ダイチ)

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