朝鮮王朝一の美貌を誇った王女/朝鮮王朝の人物と歴史33

復讐を恐れた世祖

1457年、自分に反抗する者が次々と現れる原因を「端宗が生きているからだ」と思った世祖は、甥の端宗を流罪にしたうえで死罪に処した。弟の死の知らせを受けた敬恵王女の悲しみはあまりにも深かった。
しかし、敬恵王女のお腹には新しい命が宿っていたため、ずっと悲しんでいるわけにはいかなかった。彼女は「どんな辛い出来事が起きようとも、生き延びなければいけない」と思った。
敬恵王女の妊娠を警戒していた世祖は、復讐を恐れてこんな命令を出した。
「もし生まれてきた子供が男の子だったらすぐに殺せ」
それを知った正室の貞熹(チョンヒ)王后は、文宗の血筋を途絶えさせたくないという思いから、内官(ネグァン/王や王妃の身の回りの世話をする官吏のこと)を呼んで、「男の子が産まれたら私のところへ連れてきなさい」と違う命令を出した。
敬恵王女が産んだ子供は男の子だった。彼女は世祖が「男なら殺せ」、貞熹王后が「男なら私のもとへ連れてきてほしい」と言っていたと内官から伝えられた。本当なら自分の手で育てたかったはずだが、敬恵王女は「我が子の命を守らなければならない」と思い、息子を貞熹王后に預けた。




そんな辛い経験をした敬恵王女をさらなる悲劇が襲う。外部との接触を禁じられていた夫の鄭悰が、世祖に対抗する勢力と接触していたことが明らかになり、一番残酷な方法で処刑されてしまった。それは、頭、胴体、手足を切断する方法で、陵遲處斬(ヌンチチョチャム)の刑と呼ばれている。
その処刑法で死罪になった男の妻は奴婢になる決まりがあり、敬恵王女は身分を最下層の奴婢にまで落とされてしまう。
「恥をさらすくらいなら」と自決することを考えた敬恵王女だが、彼女は再びお腹に子供を宿していて、その子を守るために生きる道を選ばざるを得なかった。
敬恵王女は奴婢になっても決して自尊心を失わず、こき使われたときは「私は王の娘である」と言い放ったのである。そして、やがて彼女は娘を産んだ。
一方で貞熹王后に預けられた敬恵王女の息子はどうなったのだろうか。
貞熹王后は、この息子に女の子の恰好をさせて育てていたが、いつまでも隠し通せるとは思っていなかった。ついに世祖に存在を知られてしまい、彼女はこれまでのことをすべて話した。




それを聞いた世祖は、怒るどころかその息子をとても可愛がり、眉寿(ミス)という名前まで付けた。さらに、彼は奴婢である敬恵王女の身分を回復させて立派な屋敷まで用意した。しかし、敬恵王女はすべて断って尼となるが、それから4年後に還俗(げんぞく/僧侶となった者が、僧侶であることを捨てて俗人に戻ること)した。
彼女がずっと願っていたのは、子供たちが連座制の罪から解放されることだった。まだ子供たちには、極刑となった鄭悰の罪が及んでいたのだ。
世祖はその願いを聞き入れた。その知らせを受けた敬恵王女は涙を流して喜んだが、それもつかの間の喜びだった。
1468年に世祖が世を去ったことで、敬恵王女の子供を処罰せよという声が高官たちから上がった。しかし、世祖の後を継いで王となった8代王・睿宗(イェジョン)はそれを絶対に許さなかった。だが、睿宗は即位からわずか1年で世を去ってしまう。
当時は、「大逆罪に問われた者の息子は15歳のときに処刑される」という法があった。敬恵王女の息子がまさに15歳になろうとしていて、高官たちは再び息子を処刑しろと声を上げたが、睿宗の後を継いだ9代王・成宗(ソンジョン)も、彼の代理で政治を行なっていた貞熹王后もそれを認めなかった。




その後、敬恵王女は息子の眉寿が立派な役職を与えられたのを見届けて、38歳で世を去った。後に眉寿は官僚として大いに出世して、妹も良家に嫁いだ。敬恵王女の子供たちはしっかりと幸せな人生を歩んだのである。

文=康 大地(コウ ダイチ)

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