王の寵愛を独り占めした悪女(前編)/朝鮮王朝の人物と歴史34

貴人(キイン)趙氏(チョシ)は、16代王・仁祖(インジョ)の側室だった女性だ。いったい彼女は存命中に何をして悪女と呼ばれるようになったのか。貴人・趙氏の人生の歩みを辿ってみよう。

仁祖と趙氏は、王宮の昌慶宮で毎日のように暮らしていた

仁祖と趙氏は、王宮の昌慶宮で毎日のように暮らしていた



仁祖に愛された女官

1629年、趙氏は仁祖の最初の正室である仁烈(インニョル)王后に従う女官として王宮に入ってきた。
1636年12月、中国大陸の清が約12万の大軍で攻めてきた。強力な清の軍勢に対して仁祖は、都の漢陽(ハニャン)の南にある山城に籠ってうろたえるばかりだった。そうしている間に、清は漢陽を占拠してやりたい放題。その被害を受けた庶民は、仁祖のだらしなさを嘆いた。
50日間の籠城の末、山城を出た仁祖は、清の皇帝の前で地面に頭をこすりつけるという屈辱的な謝罪をしている。清は朝鮮王朝に莫大な賠償金を課したうえに、仁祖の息子である長男の昭顕(ソヒョン)、二男の鳳林(ポンリム)、三男の麟坪(インピョン)を人質として連れていってしまった。
仁祖は王宮の昌慶宮(チャンギョングン)に戻るが、妻の仁烈王后がすでに1635年に世を去っていた。身内がほとんどいない寂しさの中で、彼が一番頼りにしたのが女官の趙氏だ。それを好機だと捉えた趙氏は、仁祖に取り入って王の寵愛を受けた。




仁祖から愛された趙氏は側室となり、娘の孝明(ヒョミョン)を産んだ。仁祖は、初めての娘である孝明をとても可愛がった。なぜなら、彼と仁烈王后の間に生まれた子供はすべて息子だったからだ。
朝鮮王朝では、王は王妃に先立たれてしまった場合、可能な限り早く再婚することが義務付けられていた。仁祖の最初の正室である仁烈王后はすでに世を去っている。そのため、仁祖は新しい正室を迎えなければならない。しかし、趙氏を寵愛していた仁祖は再婚する気配を見せなかったが、高官たちから早く新しい正室を迎えるように何度も催促されて、仕方なく結婚することを受け入れた。
それを聞いた高官たちは、全土に禁婚令(王の結婚が決まるまで10代後半の女性の結婚を禁止すること)を出した。
そうなると両班(ヤンバン)の家では、10代後半の未婚女性の名簿を出す義務がある。しかし、仁祖にはすでに3人の息子がいて趙氏だけを愛しているという理由から、どの家も名簿を出そうとしなかった。




その状況にあせった高官たちは、候補者の対象年齢を13歳に下げた。その結果、1638年10月に新たな正室として迎えられたのが、当時14歳だった荘烈(チャンニョル)王后だ。それでも仁祖は趙氏を寵愛し続けたため、荘烈王后は王の愛を受けることができなかった。
(ページ2に続く)

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