大ヒットした『雲が描いた月明かり』の主人公/朝鮮王朝の人物と歴史38

韓国で2016年に放送されて特に好評を博した時代劇が『雲が描いた月明かり』であった。このドラマの主人公になっていたのが孝明(ヒョミョン)世子だ。あまりに早く亡くなったために、歴史上でもそれほど知られていなかったのだが、『雲が描いた月明かり』によって大いにクローズアップされるようになった。果たして、どんな人物だったのだろうか。

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写真=韓国KBS『雲が描いた月明り』公式サイトより




悲劇の熙政堂

朝鮮王朝の正宮だった景福宮(キョンボックン)が、1592年の朝鮮出兵の際に焼失してから1865年まで再建されなかったことから、その間は昌徳宮(チャンドックン)が正宮の役割を果たすことが多かった。
この昌徳宮に熙政堂(ヒジョンダン)という王の寝殿がある。ここが一番の悲しみに包まれたのは1830年のことだった。
やがて国王になって手腕を発揮するはずの若き世子(セジャ/王の正式な後継者)がわずか21歳にして熙政堂で世を去ったのである。それが孝明世子だった。
その死は、朝鮮王朝にとっても痛恨の悲劇であった。
果たして、孝明世子とは、どんな人物だったのだろうか。
ドラマ『イ・サン』の主人公にもなっていた名君の正祖(チョンジョ)が1800年に世を去ると、息子の純祖(スンジョ)が10歳で23代王に即位した。
彼の正室が純元(スヌォン)王后である。この女性は大変な野心家で、純祖の性格がおとなしいことを利用して、自分の実家の一族である安東・金氏(アンドン・キムシ)をどんどん重職につけた。




こうして安東・金氏が朝鮮王朝の政治を牛耳るようになると、純祖もようやく妻の実家を牽制するようになり、具体的な行動に出た。
それは10歳だった息子の孝明世子の正室に豊壌・趙氏(プンヤン・チョシ)の一族の娘を迎えることだった。
つまり、豊壌・趙氏を重用して安東・金氏に対抗させようとしたのだ。
実際、孝明世子の成長にともなって豊壌・趙氏は安東・金氏の勢力を上回った。もはや安東・金氏の没落はさけられなかったのだが、驚愕すべき悲劇が起こってしまった。孝明世子がわずか21歳で1830年に亡くなったのである。
有力な後ろ楯を失った豊壌・趙氏は力が衰え、逆に安東・金氏が復活した。純祖の意図は息子の死によって失敗に終わったのだ。
以後は純元王后が世を去る1857年まで安東・金氏の天下が続き、一族の利権が優先されて政治が腐敗した。
それにしても、21歳での早世というのはあまりに早すぎる。
それゆえに、「孝明世子は安東・金氏の勢力に毒殺されたのではないか」という憶測がずっとつきまとっていた。




その可能性も確かにある。孝明世子の死によって、没落寸前の安東・金氏が復活したからだ。
純元王后が自分の息子の命を狙うというのは考えにくいが、一族の他の誰かが毒殺を狙ったということは十分にありうるだろう。それくらい、安東・金氏にとって孝明世子は最大の敵だったのである。
孝明世子は容貌に優れ、頭脳も明晰だったという。今でいえば、イケメンのエリートだったわけだ。
あまりに才能が豊かなので、孝明世子は父の純祖の命令を受けて18歳の頃から政治を代行することも多かった。
その際には安東・金氏の勢力に対抗して新しい人材を登用したというから、もし孝明世子がもっと生きて順当に王になっていれば、政治を刷新していたに違いない。
本当に惜しい若者が早世してしまったものだ。
そういう気持ちで『雲が描いた月明かり』を見ると、ドラマで描かれた孝明世子にさらなる関心を持つのではないだろうか。
今までは歴史上でも影がうすかった孝明世子だが、ドラマの人気にともなって現在の韓国で大いに知名度をあげた。

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