1603年、仁穆(インモク)王后は14代王・宣祖(ソンジョ)の子供を産んだ。王子ではなく、王女であった。この王女こそが貞明(チョンミョン)公主(コンジュ)だった。貞明公主に弟が生まれたのは、彼女が3歳のときである。仁穆王后が1606年に永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだのだ。
待っていたのは過酷な運命
宣祖は1608年に亡くなってしまった。
結局、貞明公主の異母兄であった光海君(クァンヘグン)が宣祖の後を継いで15代王として即位した。仁穆王后は「王の母」を意味する大妃(テビ)となった。
大妃といえば、王族の最長老である。朝鮮王朝は儒教を国教にしており、「長幼の序」を厳格に守る倫理観が強かった。
「よもや光海君が私を邪険にするはずがない」
仁穆王后はそう楽観していたのだが、それはあまりに甘かった。以後、仁穆王后と貞明公主と永昌大君は、過酷な運命にさらされていく。
光海君は1575年の生まれである。母は宣祖の側室であった。
年齢を見れば、光海君は貞明公主よりは28歳上で、永昌大君より31歳も上だった。これほどにも光海君は、貞明公主や永昌大君と年が離れていた。
そんなこともあって、貞明公主と永昌大君は光海君をとても慕っていた。兄というより、本当の父親のように思っていたのだ。
しかし、王位に上がったあと、光海君が妹と弟に向ける視線はガラリと変わってしまった。妹の貞明公主のほうは変わらずに可愛がったのだが、永昌大君のほうは妹ほどには優しく接しなかった。宣祖の正統的な嫡男である永昌大君が王位を脅かすかもしれない、という警戒心が働いたからだ。
光海君の側近たちは、光海君の兄の臨海君(イメグン)を1609年に流罪にしたうえで殺害してしまった。
さらには、1613年に母親の仁穆王后から無理に永昌大君を引き離し、泣き叫ぶ子供を強引に島流しにしてしまった。
3歳下の弟を溺愛していた貞明公主。彼女はまだ10歳だったが、弟と引き離されて涙がかれるほど悲しんだ。
流罪となった永昌大君は母と姉から引き離されて、どれほど寂しく心細い日々を過ごしたことか。
そんな子供に、さらなる魔の手がのびる。
1614年、光海君の側近たちが送った刺客は、永昌大君がいた部屋のオンドルの温度を異様に高温にした。それによって、永昌大君は蒸された状態で命を断たれてしまった。実に、残酷な死に方だった。
我が子を失った仁穆王后は絶望した。それは、姉の貞明公主も同じだった。
そんな2人に対して、光海君の側近たちはさらにひどい仕打ちをした。仁穆王后の大妃(テビ/王の母)という資格を剥奪し、王女であった貞明公主を庶民に格下げにしたのである。さらに、2人を西宮(ソグン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉してしまった。こうして、2人にとって長く苦しい監禁生活が始まった。
「もし自分がいなくなったら、貞明はどう生きればいいのか」
仁顕王后はそのことが頭を離れなかった。
苦難の生活の中で、母の仁穆王后は何よりも貞明公主のことだけを考えていた。そんな仁穆王后にとってわずかな救いとなったのは、貞明公主が書を愛していたことだった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
女性問題で禍根を残した19代王・粛宗/朝鮮王朝の人物と歴史3