実母に翻弄された哀しき王/朝鮮王朝の人物と歴史37

韓国時代劇『オクニョ 運命の女(ひと)』は朝鮮王朝の13代王・明宗(ミョンジョン)の統治時代の話である。しかし、明宗は名ばかりの王だった。実母の文定(ムンジョン)王后が強権を持って官僚たちを牛耳っていたからである。

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19歳上の兄

明宗は1534年に生まれた。父は11代王・中宗(チュンジョン)で、母は中宗の三番目の正室だった文定(ムンジョン)王后である。文定王后は中宗との間に1男4女をもうけたが、その「1男」が明宗だった。
明宗が生まれたとき、世子(セジャ/王の正式な後継者)となっていた19歳上の異母兄がいた。世子は1515年の生まれで、母は中宗の二番目の正室の章敬(チャンギョン)王后だった。
中宗の正室から生まれた王子は世子と明宗だけだったが、19歳も上の兄がいるだけに明宗が王位に就く可能性はとても低かった。
しかし、あきらめなかったのが母の文定王后であった。
「世子さえいなくなれば……」
そう考えた文定王后は、自分がお腹を痛めて産んだ明宗を絶対に王にしたいと考え、世子の命を狙うようになった。




しかし、暗殺の危機を乗り越えて、世子は1544年に中宗が亡くなったあとに12代王になった。これが仁宗(インジョン)である。
彼は人徳があり親孝行な王だった。そんな仁宗の命を狙い続けた文定王后。その執念は凄まじかった。
結局、仁宗は即位して約8カ月で急死した。
文定王后に毒殺されたと見られている。
いずれにしても、仁宗の急死によって、明宗が13代王として即位した。仁宗に子供がいなかったので、弟に出番がまわってきたのである。
明宗が王になったとき、まだ11歳だった。
王が未成年で即位すると、王族の最長老女性が政治を代行することになっていた。その役を担ったのが、明宗の母の文定王后だった。
これは、朝鮮王朝の民衆にとって不幸なことだった。なぜなら、文定王后は一族で政権を独占し、賄賂政治で不正を横行させたからである。
当時は凶作が多かった。しかし、代理政治を行なった文定王后は民衆の困難に目を向けず、国中に餓死者があふれてしまった。




明宗は頭が良く、心が優しい少年だった。しかし、母が政治を代行しているので、彼はどうしようもなかった。
玉座に座りながら、どんなにつらい思いをしていたことか。彼は、悪女の典型とも言える母によって苦しめられた。
成人した明宗は自ら政治を仕切るようになったが、ことあるごとに口をはさんできたのが文定王后だった。
彼女のやり方は露骨だった。
最初は文書で明宗に指図してくるのだが、明宗がそれに従わないときには、強引に王を呼びつけて叱責した。
ときには、王の頬をたたくことさえあった。
母親とはいえ、王に対してあまりに不敬だった。しかし、心優しき明宗は、最後には母の言葉を拒むことができなかった。
結局、文定王后は「陰の女帝」として私腹を肥やすための政治を続けていき、明宗はそのたびに悲嘆に暮れた。




その文定王后は、1565年に世を去った。
それは、悪政の終わりを意味していると思われた。
事実、明宗は新しい人材を登用して、文定王后の息がかかった奸臣(かんしん)たちを罷免した。追放された者の中には、文定王后の弟であった尹元衡(ユン・ウォニョン)もいた。彼は明宗にとって叔父であったが、悪政の象徴のような人物であり、新しい政治には邪魔となる存在だった。
こうして新しく民衆のための善政を始めた明宗。しかし、わずか2年で命が尽きてしまった。1567年に亡くなったときは、33歳の若さだった。
よほど心労が積み重なっていたのだろう。
文定王后の悪政に心を非常に痛めていた明宗は、結局は極度のストレスによって命を縮めたのである。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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