尹元衡(ユン・ウォニョン)は、取るに足らない人間だった。しかし、自分の力ではなく、姉の権力を利用して成り上がっていった。その姉というのが、11代王・中宗(チュンジョン)の3人目の正室となった文定(ムンジョン)王后だった。
姉が王妃になって運命が変わる
文定王后が中宗の継妃になったのは1517年だった。それまでの尹元衡は、うだつが上がらない男だった。
それなのに、姉が王妃になった途端に、うまく立ち回って出世街道をひたすら突っ走っていった。
その過程で知り合ったのが、妓生(キセン)の鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)である。韓国時代劇の名作として知られる『女人天下』には、尹元衡が鄭蘭貞と出会う場面が象徴的に描かれていた。
それは、どんな場面になっていただろうか。
『女人天下』には次のようなシーンがあった。
尹元衡が妓楼でお気に入りの妓生を呼ぶと、そこに現れたのは鄭蘭貞だった。彼女はまだ見習いの妓生だったが、妓楼の主人に頼んで指名をかわってもらったのだ。
尹元衡は、別の女性が入ってきたので驚くが、すぐに鄭蘭貞の美貌に心を奪われてしまった。
「おまえのような美人がどこに隠れておったのだ」
尹元衡が感心していると、鄭蘭貞は控えめにこう言う。
「私はまだつぼみでございます。水をくだされば、花を咲かせましょう」
尹元衡はもう完全に鄭蘭貞のとりこになっている。
「おまえを水揚げするのはかならず私だ」
尹元衡はそう断言するのだが、鄭蘭貞は「私はそのような女ではありません」と欲がないことを言う。
実は、これ以上に欲が深い女性はいないのだが……。
『女人天下』での尹元衡と鄭蘭貞の出会いは、完全なフィクションである。しかし、欲深い2人が結託するときは、おそらくドラマのようなドロドロしたものがあったはずだ。
結局、尹元衡と鄭蘭貞は「悪の継妃」であった文定王后の手先となって、敵対勢力を陰謀で粛清する役を引き受けた。
特に、尹元衡が絶大な権力を握るようになったのは1545年からだ。
その前年に中宗が世を去り、次の王に仁宗(インジョン)がなった(彼は中宗の二番目の正室だった章敬〔チャンギョン〕王妃から生まれている)。
しかし、仁宗は即位からわずか8カ月で急死した。文定王后によって毒殺されたと見られている。
その結果、文定王后が産んだ息子が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位した。彼はまだ未成年だったので文定王后が代理で政治を仕切った。こうして、弟の尹元衡は文定王后の後ろ楯を得て、政治を一気に牛耳るようになった。
そんな尹元衡が政敵を粛清するために画策した陰謀が、1547年に起こった良才(ヤンジェ)駅壁書事件である。
事件の発端は、都の南にあった良才駅で政権批判の張り紙(壁書)が発見されたことだった。そこには、「上では女王が、下では奸臣が権力を占めているから国が滅びてしまう」ということが書かれてあった。
尹元衡は政敵の仕業であると捏造し、「女王」と名指しされた文定王后の指示をあおぎながら、この張り紙を大問題に仕立てあげた。
その結果、尹元衡の政敵はことごとく排除されてしまった。
こうなると、尹元衡の横暴ぶりも限界がなくなる。姉の文定王后が「陰の女帝」として君臨していることを利用して、尹元衡はあまりにひどい賄賂政治を続けた。
さらには、鄭蘭貞と共謀して妻を毒殺し、新たに鄭蘭貞を正妻に迎えた。
ただし、尹元衡が権力をつかんだと言っても、それは姉の威光があったからだ。姉の文定王后が1565年に世を去ると、一気に尹元衡は奈落に落ちた。今までの悪行が次々に暴露されたのだ。
処刑されるのを恐れて、尹元衡と鄭蘭貞は逃亡した。地方で息をひそめて暮らしたが、最後は2人とも自決している。あまりに多くの恨みを買いすぎていて、結局は自ら命を絶たざるをえなくなったのだ。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
女性問題で禍根を残した19代王・粛宗/朝鮮王朝の人物と歴史3