すべてを悟った2人の兄
ある日の夜、崇高な決意を胸に秘め精進する孝寧の部屋に譲寧が姿を見せた。
「兄様、こんな夜ふけにどうされたのですか」
突然の兄の訪問に戸惑う孝寧の目を真っすぐに見据えながら、譲寧が言った。
「聡明なお前なら分かるはずだ。父上にとって、国にとって、誰が世子になるのがいいのかを……」
諭すように語る譲寧からは異端児の面影は何も見当たらなかった。その姿に孝寧は、兄が世子の資格を取り消された真の理由がわかった。そして、父のため、国のためにすべてを犠牲にした兄の高潔な魂を感じた。
「わかりました」
「すまない。すべては国のためなんだ」
こうして1418年に2人の兄の思いを受けて忠寧は世子に任命された。2人の兄がいるのに忠寧を世子にすることは宮中で大きな反対が起こったが、太宗は「忠寧は生まれつき聡明で、学問に優れ、政治を行なう方法をよく知っている。忠寧の他に王位を譲るつもりはない」と断言した。
残された譲寧と孝寧もまた、自分たちが宮中に留まれば忠寧にとってマイナスにしかならないと感じ、譲寧は諸国漫遊の旅に出て、孝寧は仏門に入った。
忠寧が世子に指名された2カ月後、太宗は正式に王位を忠寧に明け渡した。4代王の世宗(セジョン)の誕生である。
父である太宗は兄弟と争って王位に就いた。しかし、世宗は兄弟たちの思いやりを受けて王になった。この違いは大きい。
そして、世宗は国と国民にすべてを捧げる一生を送り、後代の王の模範となる政治を行なった。特に、臣下たちの言論に対して寛容な態度を示した。
そればかりか、一般の人間でも能力があると思われる人材は積極的に登用していった。こうした人事は大衆に「自分も頑張れば……」という向上心を与えた。
それは有能な臣下たちが台頭するきっかけにもなった。世宗はそうした才ある者たちを集賢殿(チッピョンジョン)に集め、彼らが学問を深められるように尽力した。実際、世宗は集賢殿で研究を続ける学者たちを信頼していた。
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