王妃たちが国母であった時代「第5回」

夫より実家を守った妻

張禧嬪の息子は、1720年に20代王・景宗(キョンジョン)として即位した。しかし、わずか4年の在位で世を去り、今度は粛宗と淑嬪・崔氏との間に生まれた英祖(ヨンジョ)が王位についた。
このとき彼は30歳だったが、それから52年の長きにわたって統治した。これは朝鮮王朝27人の中で最長記録である。
各派閥から公平に人材を登用する政策を行なって名君と呼ばれた英祖だが、1762年に息子の思悼(サド)世子を米びつに閉じ込めて餓死させるという出来事を引き起こした。激しい権力闘争の中で、“思悼世子の素行が悪い”という奸臣の言葉を信じすぎた結果だが、この餓死事件に際して王宮の女性たちも不可解な動きをしている。
まず、英祖の継妃だった貞純(チョンスン)王后(17歳のときに68歳だった英祖の二番目の妻となった)は、思悼世子の良からぬ噂を英祖に吹聴することが多かった。それは、形式上は息子となる思悼世子を嫌っていたことが原因だった。




思悼世子の妻だった恵慶宮(ヘギョングン)は、思悼世子の助命に奔走するというより、ただ静観するところがあった。彼女の実家が思悼世子と敵対する勢力だったからだ。恵慶宮は夫よりも実家を守るほうに力を注いだともいえる。

王妃たちが国母であった時代「第1回」

王妃たちが国母であった時代「第2回」

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