日本と韓国の交流史6/善光寺の絶対秘仏

日本最古の霊仏

善光寺の縁起の中で、「物部氏が蘇我氏の建立した寺を焼き払い、難波の堀江に阿弥陀三尊仏を投げ捨てた」という記述に注目したい。
『日本書紀』にも、仏教の受容を反対した物部氏が、仏像を安置していた寺を焼き払い、焼け残った仏像を難波の堀江に投げ捨てた、という記述がある。こうした一連の動きと善光寺の存在は大いに関係があるようだ。
善光寺の創建を立証する史料は残っていない。
境内から発見された瓦を調べてみると、7世紀後半には相当な規模の寺院だったことが推測される。
古い記録からは、8世紀中頃に善光寺の本尊が「日本最古の霊仏」として知られていたこともわかる。
一説によると、『善光寺縁起』に登場する本多善光は百済の王族の1人で、適地を選んで阿弥陀像を安置して仏教を広めたとか。




長野県の古い国名は「信濃(しなの)」。大和朝廷で「信濃」という国名が採用されたのは704年頃だ。
それ以前は「科野(しなの)」の字が当てられた。古代朝鮮の史料には、百済から日本に派遣された使者の中に「科野」という名がある。
長野県の広い範囲で渡来人の遺物や遺跡も発見されている。その地に善光寺が造営されて日本最古級の絶対秘仏がある、というのは何を物語っているのだろうか。
(次回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

日本と韓国の交流史1/海を渡る人々

日本と韓国の交流史2/広開土王の時代

日本と韓国の交流史3/仏教伝来

日本と韓国の交流史7/浅草寺の縁起




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