「顕徳王后の呪い」とは何か

甥の端宗(タンジョン)から王位を奪った世祖は、自分が王位に就くために政権内部を血で染めた。どんなに繕(つくろ)っても、彼の行為を正当化することはできないだろう。しかし、民の側から見れば、世祖はものわかりがいい王だった。民が不満を政府に上訴しやすい制度を整えたことがその典型例である。





夢の中での罵倒

世祖はあらゆる制度の改革に熱意を燃やし、官制改編、軍備増強、民生安定に力を尽くした。
さらに、朝鮮王朝の基本法典となる「経国大典」の編纂も始めている。
ただし、王位を取るために働いた家臣たちを優遇しすぎたことが、後々に禍根を生んだことも否定できない。
家臣たちは権力を乱用して政治腐敗の一因となってしまった。彼らは俗に勲旧(フング)派と称されている。
その勲旧派を糾弾(きゅうだん)する存在として台頭したのが、倫理感を重んじた士林(サリム)派である。
この勲旧派と士林派の対立こそが、朝鮮王朝の病弊とも呼ばれた「党争」(派閥闘争)の始まりとされている。世祖も、とんだ火種をつくってしまったものだ。
その世祖は1468年に51歳で世を去った。




晩年は不可解な皮膚病に苦しんだが、それは夢の中で顕徳(ヒョンドク)王后に唾をはかれたのが原因だと噂された。
顕徳王后は端宗の生母で、端宗を出産して数日後で亡くなっている。その彼女が世祖の夢の中にたびたび出てきて、「よくも私の息子を殺したな。地獄に落ちろ!」と世祖を罵倒したという。
不幸なことに、世祖の息子二人はともに19歳の若さで亡くなっている。それを“顕徳王后の呪い”とみなす人も多かった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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