燕山君が起こした暴政
宮中では燕山君に取り入る者と反発する者に分かれた。そんなとき、燕山君は母である廃妃・尹氏の死の真相を知った(それ以前には知らされていなかった)。逆上した燕山君は母の死に関わった人たちを一族もろとも処刑した。これが朝鮮王朝の中でも最悪の虐殺事件である。
この事件をきっかけに、燕山君の暴政は一層ひどくなっていった。彼は連日連夜、豪華な酒宴を開き、放蕩にふけった。こうした暴政に庶民の怒りは限界に達し、「王は女と酒のことしか頭にない愚劣な人物だ」「王は血に飢えた暴君」とハングルの落書きが市中にあふれた。
それを知った燕山君は怒りにかられ、ハングルを全面禁止にして、ハングルで書かれた書物の焚書(ふんしょ)まで始めた。
しかし、燕山君の暴政も長くは続かなかった。1506年、彼はクーデターによって王位を剥奪された。
燕山君は江華島(カンファド)に島流しにされた。その2カ月後には31歳で死んだ。
彼の墓は現在もソウルに実在する。しかし、「燕山君之墓」という墓碑銘の他に一切の装飾がない。
記事提供:「朝鮮王朝オッテヨ」
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