おどろき朝鮮王朝12「純元(スヌォン)王后」

19世紀前半、朝鮮王朝の政治を完全に牛耳った純元(スヌォン)王后。彼女は一族で要職を固める勢道政治に固執したが、孫の24代王・憲宗(ホンジョン)が1849年に22歳で急死したとき、最大のピンチを迎えた。王族の中で意にそぐわない男子を排除してきたあおりで、王位を継げる人がいなかったのである。





田舎に住む無学の青年

迷ったあげく、純元王后が見つけだしてきたのが、地方で農業をしながら生計を立てていた元範(ウォンボム)という18歳の青年だった。
確かに、王族には違いなかった。亡き憲宗とは7親等の間柄だったし、かつて21代王・英祖(ヨンジョ)によって餓死させられた思悼(サド)世子の曾孫だった。
しかし、すでに田舎暮らしが身についていて、まともに学問を受けていなかった。
致命的だったのは、漢字すらよくわからなかったことだ。文字を読めない人が王になるというのは、文を尊ぶ国ではあってはならないことだった。
それでも、純元王后は無学の青年のほうが意のままに操れると考え、前代未聞の人事を強行した。
この元範の親族は死罪や流罪になった人が多かった。それゆえ、王宮から使者がきたとき、てっきり元範は「殺されるのでは?」と勘違いしてしまった。
そんな状態だったので、彼はオドオドしながら王宮に入っていった。
1849年6月9日に25代王・哲宗となった。
しかし、純元王后もさすがに哲宗の学のなさが心配だったようだ。即位式のあと、純元王后は高官たちに訓示した。
「殿下が徳を積めるかどうかは学識次第です。殿下は、自ら熱心に学ばなければなりません。臣下の者たちは協力して、殿下が徳を積めるように支えてほしい」




このように、哲宗の即位初日の御前会議は教育問題が議題となった。難関の科挙に合格して高官までのぼりつめた官僚たちも、無学の王の誕生に内心ではハラハラするばかりだっただろう。
なにしろ、重臣の1人が哲宗に今までに読んだ書物を尋ねたら、哲宗は子供用の書物を挙げるばかりだったのだ。
純元王后は哲宗に公式の文書を渡したが、漢字を知らない哲宗のためにその文書はハングルで書かれてあった。
まるで、10歳未満の子供が王になったような扱いだった。
(ページ2に続く)

おどろき朝鮮王朝1「太祖(テジョ)の乱心」

おどろき朝鮮王朝2「太宗(テジョン)の剛腕」

おどろき朝鮮王朝3「文宗(ムンジョン)の不覚」

おどろき朝鮮王朝9「明聖(ミョンソン)王后」

おどろき朝鮮王朝10「張禧嬪(チャン・ヒビン)」

おどろき朝鮮王朝11「思悼世子(サドセジャ)」



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