英祖が行なった政策
王になった英祖は、少論派への弾劾を最小限に抑えた。「こういった争いを繰り返せば、再び怨讐を生むだけだ」と考えていた彼は、蕩平策(タンピョンチェク)という政策を採用した。これは各派閥から有能な人材を採用する政策で、それによって激しく行われていた党争が静まったのである。
それからも英祖は、国防の強化や苛酷な刑罰の禁止、減税や庶民の官吏登用試験などで、どんどん成果を上げていった。朝鮮王朝では厳しい身分制度が続いていたが、その中で少しでも人権に配慮した政策が行なわれるようになったのは英祖の功績だ。
彼のような博愛主義的な王は今まで存在しなかった。しかし、まったく問題を起こさなかったわけではない。
英祖には2人の子供がいた。長男の孝章(ヒョジャン)は1719年に生まれたが、わずか9歳で病死してしまう。それから16年後の1735年に荘献(チャンホン)が生まれた。彼は生まれつき聡明だった。
荘献は2歳のときに、儒教の教典を暗唱したと言われている。その後もたびたび大人を驚かせた彼は、将来は名君になると期待されていた。しかし、彼は10歳のときにいくつかの政策を批判して、老論派から警戒されるようになる。
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