恨みが骨髄に達していた
王朝を新たに打ち立てるほどの才気を持っていた李成桂も、還暦が近くなって判断力が衰えていたに違いない。
「父に裏切られた」
その思いを強くしていた芳遠が黙っているはずがなかった。1396年に神徳王后が世を去ったあと、芳遠は逆襲の機会をうかがい、1398年に神徳王后の2人の息子を死に追いやった。
病床にあった李成桂は、ただ傍観するしかなかった。
情に流された後継者指名の反動は、異母兄弟たちによる骨肉の争いという悲劇を生んでしまった。
先に兄を即位させてから満を持して芳遠は3代王の太宗(テジョン)となった。
太宗は、とても継母が憎かったようで、神徳王后の墓を格下げにして彼女の身分を落とした。それだけであきたらず、神徳王后の親族を厳罰にした。
よほど恨みが骨髄に達していたのだろう。
迷惑したのは、とばっちりを受けた神徳王后の親族たちだった。