王族の首陽大君(スヤンデグン)は、いよいよ自分が行動を起こす時期に来ていることを悟った。側近たちとの密談を繰り返した首陽大君は、1453年10月10日、ついに多くの同志を自邸に招いて決起集会を開いた。
政変を起こした男
首陽大君は言った。
「私はお前たちを戦いに強要したりしない。従わない者はいますぐ去るがいい。だが、もし私の邪魔をする者がいるのなら、この場で首をはねてやる!」
首陽大君の気迫はすごかった。それは当然のことだ。自分が王になれるかどうかの瀬戸際だっただけに、首陽大君は命をかけて同志を奮い立たせた。
それでも、口実をもうけて裏口から逃げてしまう者もいた。人間は、いざとなると命を惜しむものであり、首陽大君に勝ち目がないと思った同志がいたのも事実だった。
首陽大君は落胆したが、それでも彼の気迫は萎(な)えなかった。
「ここが正念場だ。決起するぞ!」
そう決断した首陽大君は、政変を起こした。その政変は大成功し、首陽大君は、側近たちを引き連れて端宗(タンジョン)のもとへ向かった。
首陽大君は端宗に対して堂々と宣言した。
「謀叛を計画し、王朝を危機に陥れる重罪人を処分しました。他にも謀反を考えている人物に心当たりがあります。奴らの処分も私にお任せください」
屈強な武臣たちを従わせる叔父の迫力に、端宗はただ従うしかなかった。
首陽大君は勝手に王命を発して、高官たちを王宮に集めた。そして、首陽大君の意にそぐわない高官たちをその場で殺害していった。
こうして一夜にして王宮は首陽大君派に牛耳られることになった。
首陽大君は実の弟も容赦しなかった。彼は安平大君(アンピョンデグン)の官職を剥奪したうえで島流しにした。そして、最後は死罪にして命を奪った。
反対勢力をすべて処罰した首陽大君は、ついに王朝の全権を掌握した。首陽大君が起こした政変は癸酉の年(1953年)に起こったので、「癸酉靖難(ケユジョンナン)」と呼ばれている。
王朝の最高実力者となった首陽大君は、自分に味方した臣下たちを功臣として優遇した。こうなると、政治の中枢はすべて首陽大君派になった。
哀れなのは端宗である。自分の後見人たちが死んでしまい、完全に孤立してしまった。もはや頼れる側近は皆無の状態だった。
これでは「お飾りの王」にならざるをえなかった。
「このままでは叔父に殺されてしまう」
その恐怖心が日増しに強くなった。端宗としては「私を生かしてください」と首陽大君に頼むことしかできなかった。
1455年、首陽大君は脅(おど)すような形で甥に王位の禅譲を強要した。端宗は抵抗することができず、叔父の言葉に従った。
こうして14歳の王は、なんの実権もない上王にまつりあげられてしまった。そして、首陽大君は7代王の世祖(セジョ)となった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
首陽大君(スヤンデグン)は弟の安平大君(アンピョンデグン)を悪意で死罪にした!