陥れられた世子
英祖の二番目の正室となった貞純(チョンスン)王后も、老論派の重要な家門の出身であった。
彼女もまた、イ・ソンの悪評を英祖の耳に入れた張本人の1人だ。
このように、イ・ソンは老論派に囲まれるような形になっていて、悪意のある人たちが彼を陥れようとしていた。
1762年、老論派の指示を受けた官僚が「世子が謀叛を起こそうとしています」という訴えを起こした。
英祖の場合、本来なら息子を信じなければいけないのに、逆にその告発を真に受けてしまった。
英祖はイ・ソンをきつく叱責した。
とにかく、かんしゃく持ちだった英祖は、一度激怒すると抑えがきかないところがあった。
イ・ソンは王宮の中庭で、英祖に対して平伏しながら許しを乞うたのだが、適切な弁明をすることができず、さらに窮地に追い込まれていった。
後日、イ・ソンは英祖によって自害を命じられた。
しかし、イ・ソンは自害をせずにただ泣き崩れているだけだった。
いつまでも自害しないイ・ソンに激怒した英祖は、中庭に米びつを運ばせて、その中にイ・ソンを閉じこめてしまった。
しかも、水も食物も与えなかった。
一時の感情でイ・ソンを米びつに閉じ込めたとしても、一晩寝て冷静になってから英祖もイ・ソンを許すべきだった。
しかし、頑固な英祖は決してそうはしなかった。結局、イ・ソンはずっと米びつに閉じ込められたままであった。そして、8日目に米びつを開けてみたら、すでにイ・ソンは餓死していた。
そこまで事態が悲劇的になった後で、英祖は自分があまりにも大変なことをしてしまったことを後悔した。
そして、イ・ソンを心から悼む気持ちから「思悼世子(サドセジャ)」という諡(おくりな)を贈った。
英祖は、何とむごいことをしてしまったのだろうか。すべては取り返しのできないことであった。
こうして、イ・ソンこと思悼世子は、朝鮮王朝で一番悲劇的な王子として名前を歴史に残すことになった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
「英祖(ヨンジョ)は粛宗の子供ではない」という告発がなぜ起こった?