朝鮮王朝の歴史を彩った重要人物を網羅した人物事典です。日本語の音読みで引けるようになっており、漢字を音読みにして検索してください。今回は〔ふ~り〕を取り上げています。
〔ふ~り〕
文宗(ぶんそう/ムンジョン)
〔1414~1452年〕
5代王。在位は1450~1452年。4代王・世宗(セジョン)の長男として、父が病床のときは政治を代行して実績をあげた。学者顔負けの博識で人格も優れていた。しかし、王位に上がってからは体調を崩し、わずか2年間の治世だった。
文定(ぶんてい/ムンジョン)王后
〔1501~1565年〕
11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の正妻。我が子を王位に就かせるため、中宗の先妻の息子だった12代王・仁宗(インジョン)の暗殺を何度も狙ったと言われている。実際、仁宗が亡くなったときも、文定王后による毒殺という噂が流れた。我が子が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位すると、垂簾聴政を行なって権力を独占した。
芳幹(ほうかん/バンガン)
〔1364~1421年〕
李成桂(イ・ソンゲ)の四男。最高実力者だった弟の芳遠(バンウォン)に逆らって自ら王になろうとして1400年に挙兵。それは「第2次王子の乱」と呼ばれる。王位争いに敗れたが、助命されて島流しになった。
芳碵(ほうせき/バンソク)
〔1382~1398年〕
朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ)の八男。幼いときから聡明で、1392年にわずか10歳で世子(セジャ)に指名されたが、1398年に「第1次王子の乱」が起きて異母兄の芳遠(バンウォン/後の3代王・太宗〔テジョン〕)に殺された。
朴文秀(ぼく・ぶんしゅう/パク・ムンス)
〔1691~1756年〕
官僚。地方役人の不正を正す捜査官「暗行御史(アメンオサ)」の代表人物。元は、歴史を編纂する優秀な官僚だった。順調に出世していたが、33歳のときに権力争いに巻き込まれて官職を剥奪された。3年後に復職。以後は、暗行御史として各地を巡回し、役人の腐敗を徹底的に調べて庶民の喝采を浴びた。
明聖(めいせい/ミョンソン)王后
〔1642~1683年〕
18代王・顕宗(ヒョンジョン)の正妻。19代王・粛宗(スクチョン)の母。張禧嬪(チャン・ヒビン)の欲望に気づいて、彼女を王宮から追放したこともある。1683年、粛宗が原因不明の病にかかったとき、助けたい一心で、真冬にもかかわらず水浴びの苦行を続け、それが元で亡くなった。
明成(めいせい/ミョンソン)皇后
〔1851~1895年〕
26代王・高宗(コジョン)の正妻。元来が聡明な女性で、政治にも積極的な関与。高宗の父の興宣大院君(フンソンデウォングン)と対立したが、ロシアに近づいて日本に対抗しようとした。1895年、日本の勢力によって殺害された。
明宗(めいそう/ミョンジョン)
〔1534~1567年〕
13代王。在位は1545~1567年。慶源(キョンウォン)という名でも知られる。父は11代王・中宗(チュンジョン)で、母は文定(ムンジョン)王后。11歳で即位したために、母が垂簾聴政をした。その母が恐怖政治で宮中を取り仕切り、明宗も心痛が多かった。
李舜臣(り・しゅんしん/イ・スンシン)
〔1545~1598年〕
水軍の将軍。世界の海戦史の中でも、“天才的な戦略家”として著名。豊臣軍との戦いでは、亀甲船を操って連戦連勝。1598年、最後の決戦で流れ弾が当たって戦死した。現在も韓国では“救国の英雄”として絶大な尊敬を集めている。
李成桂(り・せいけい/イ・ソンゲ)
〔1345~1408年〕
初代王の太祖(テジョ)。在位は1392~1398年。高麗王朝末期に武将として頭角を現し、1388年に最高権力者となる。1392年に高麗王朝を滅ぼして朝鮮王朝を創設した。1393年に国号を“朝鮮”に決め、1394年に都を漢陽(ハニャン/現在のソウル)に移して朝鮮王朝の基盤は固めた。1398年に隠居して1408年に亡くなった。
李退渓(り・たいけい/イ・テゲ)
〔1501~1570年〕
儒学者。朝鮮王朝時代の儒学の大家で、その名声は日本にまでとどろいた。李退渓が亡くなったとき、14代王・宣祖(ソンジョ)は3日間喪に服したという。それほど彼の学説に傾倒していた。現在の韓国では千ウォン紙幣の肖像画になっている。
臨海君(りんかいくん/イメグン)
〔1574~1609〕
14代王・宣祖(ソンジョ)の長男。16世紀末、豊臣軍との戦乱の中で捕虜になってしまい、解放後にはその屈辱から酒びたりになった。素行の悪さが原因で、王の後継者になれなかった。弟の光海君(クァンヘグン)が即位すると、危険人物と見なされて自決させられた。