朝鮮王朝の歴史を彩った重要人物を網羅した人物事典です。日本語の音読みで引けるようになっており、漢字を音読みにして検索してください。今回は「か~き」を取り上げています。
〔か~き〕
郭再祐(かくさいゆう/クァク・ジェウ)
〔1552~1617年〕
義勇軍のリーダー。34歳で科挙に合格したが、答案に書いた言葉が王の怒りを買ってしまい、合格を取り消される。以後、官職に就くことをあきらめて故郷に戻る。1592年、豊臣軍との戦いが始まると、彼は多くの資産家を説得して兵力を整え、ゲリラを率いて勝利を収めた。いつも真っ赤な軍服をまとっていたので「紅衣将軍」とも呼ばれた。
韓明澮(かん・めいかい/ハン・ミョンフェ)
〔1415~1487年〕
政治家。7代王・世祖(セジョ)が甥から王位を奪う際に策士として暗躍した。以後、政権の中枢を占めるようになり、娘たちが7代王・睿宗(イェジョン)や8代王・成宗(ソンジョン)の正妻になっている。
許筠(きょ・きん/ホ・ギュン)
〔1569~1618年〕
小説家および官僚。著名な文人の末っ子として生まれた。姉は詩人の許蘭雪軒(ホ・ランソロン)。高級官僚への道を歩むが、その視線は常に社会変革に向いた。王政への痛烈な批判を込めて書いた小説が『洪吉童(ホン・ギルドン)伝』。身分制度を乗り越えて誰もが自由になる理想郷を描いた。最後は反逆罪で死罪となった。
許浚(きょ・しゅん/ホ・ジュン)
〔1539~1615年〕
医学者。14代王・宣祖(ソンジョ)の主治医を務めた。そのかたわら、研究と執筆に没頭し、1610年に『東医宝鑑』を完成させた。この医学書は400年後の今でも東洋医学の医師が参考にするほどの名著。韓国は2009年にこの『東医宝鑑』をユネスコの世界記録遺産に登録している。
許蘭雪軒(きょ・らんせつけん/ホ・ナンソルホン)
〔1563~1589年〕
詩人。16世紀後半、女性には学問が必要ないと言われた時代に独学で才能を伸ばし、天才的な女流詩人として頭角を現した。その詩は中国でも評判となり、名声は日本にも伝わった。『洪吉童(ホン・ギルドン)伝』を書いた許筠(ホ・ギュン)は弟に当たる。
金弘道(きん・こうどう/キム・ホンド)
〔1745~? 〕
画家。朝鮮王朝時代を通して最高の絵師と言われた。名声がとどろき、22代王・正祖(チョンジョ)も肖像画を依頼した。その出来ばえに正祖は「さすが天才画家!」と称賛したという。時代劇『風の絵師』の主人公としても取り上げられた。
金時習(きん・じしゅう/キム・シスプ)
〔1435~1493年〕
文学者。生後8カ月で文字を覚えて3歳で詩をつくった。その神童ぶりに、4代王・世宗(セジョン)も驚嘆したという。国を背負う逸材だったが、6代王・端宗(タンジョン)が叔父の世祖(セジョ)に王位を奪われた事件に憤慨して、以後は各地を放浪。小説や詩の傑作を残した。
金宗瑞(きん・そうずい/キム・ジョンソ)
〔1383~1453年〕
政治家。4代王・世宗(セジョン)の治世時代に名をはせた忠臣で政権の重職を歴任。勇猛だったので“虎”と称された。6代王・端宗(タンジョン)の後見人となり、「命をかけて端宗を守る」と誓ったが、1453年、自宅で首陽大君(スヤンデグン/後の世祖〔セジョ〕)に不意に襲われて絶命した。
金祖淳(きん・そじゅん/キム・ジョスン)
〔1765~1832年〕
23代王・純祖(スンジョ)の正妻だった純元(スヌォン)王后の父。純祖がまだ幼い年齢で即位したことを利用して、一族の者たちで政権の要職を占めて政治を私物化した。それは歴史的にも“安東・金氏の勢道政治”と呼ばれている。