日本語読みで引く人物事典4〔こ〕編

朝鮮王朝の歴史を彩った重要人物を網羅した人物事典です。日本語の音読みで引けるようになっており、漢字を音読みにして検索してください。今回は〔こ〕を取り上げています。

〔こ〕

孝懿(こうい/ヒョイ)王后
〔1753~1821年〕
22代王・正祖(チョンジョ)の正妻。人格者で、宮中で誰もが尊敬するほど評判が良かった。しかし、正祖との間で最後まで子供を宿すことはできなかった。1821年、68歳のときに亡くなった。今でも韓国で「もっとも徳があった王妃」として記憶されている。

洪鳳漢(こう・おうかん/ホン・ボンハン)
〔1713~1778年〕
思悼(サド)世子の正妻だった恵慶宮(ヘギョングン)の父。思悼世子から見れば岳父であったが、彼の罪をとがめる役割を演じた。

光海君(こうかいくん/クァンヘグン)
〔1575~1641年〕
15代王。在位は1608~1623年。14代王・宣祖(ソンジョ)の二男で、即位と同時に血の粛清に乗り出した。兄の臨海君(イメグン)を自決させ、異母弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)を殺した。政治的業績は多かったと言われるが、身内を殺害した非道を問われて、1623年にクーデターで王位を追われた。最後は済州島(チェジュド)に流されて66歳で世を去った。

洪景来(こう・けいらい/ホン・ギョンネ)
〔1780~1812年〕
反乱の首謀者。1811年12月、安東(アンドン)・金(キム)氏による圧政が続いて政治が腐敗したときに農民を主導して挙兵。政府軍と対峙して奮闘したが、1812年4月に鎮圧されて、洪景来は戦死した。

黄真伊(こう・しんい/ファン・ジニ)
〔生没年は不明〕
詩人。妓生(キセン)として美貌に恵まれ、詩歌や舞踊の才能が卓越していた。時代劇『ファン・ジニ』のモデルとなったが、その詩歌は韓国の教科書に載るほど著名だ。

興宣大院君(こうせんだいいんくん/フンソンデウォングン)
〔1820~1898年〕
26代王・高宗(コジョン)の父で氏名は李是応(イ・ハウン)。“大院君”とは王の父に対する敬称である。息子の即位にともなって実権を掌握し、次々に政治改革を行なった。1865年からは正宮の景福宮(キョンボックン)の大々的な復元工事を実施して成果をあげたが、民は重税に苦しんだ。

孝宗(こうそう/ヒョジョン)
〔1619~1659年〕
17代王。在位は1649~1659年。16代王・仁祖(インジョ)の二男で、兄とともに長く清の人質になっていた。帰国後に兄が急死して仁祖の後を継ぐ。軍備を増強して清を攻めようとしたが、財政難で実現できなかった。

高宗(こうそう/コジョン)
〔1852~1919年〕
26代王。在位は1863~1907年。19世紀後半の激動期に王位に就いていたが、日本や欧米諸国の干渉を受けて苦しい政治を強いられた。1897年、朝鮮王朝が大韓帝国と国号を変更したのにともない、初代皇帝に就任した。1907年のハーグ密使事件(オランダのハーグで行なわれた平和会議に、日本による干渉の不当性を訴える密使を派遣した事件)の責任を取る形で退位せざるをえなくなった。

孝明(こうめい/ヒョミョン)世子
〔1809~1830年〕
23代王・純祖(スンジョ)の長男。1827年、18歳で父の政治を代行するようになった。人事面や法制面で優れた統治能力を見せ、名君になる素養を感じさせた。しかし、21歳で夭逝。その死を誰もが惜しんだ。

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