朝鮮王朝の歴史を彩った重要人物を網羅した人物事典です。日本語の音読みで引けるようになっており、漢字を音読みにして検索してください。今回は〔せ~た〕を取り上げています。
〔せ~た〕
成三問(せい・さんもん/ソン・サムムン)
〔1418~1456年〕
政治家および学者。4代王・世宗(セジョン)を支え、ハングルの創製にも関わった。世祖(セジョ)が甥の端宗(タンジョン)から王位を奪ったとき、端宗の復位を狙ったクーデターを計画した。失敗して捕らえられたとき、世祖に懐柔されたが断固として拒否。残虐な方法で処刑された。彼を含む6人の同志は忠誠心を讃えられて「死六臣」と呼ばれた。
正祖(せいそ/チョンジョ)
〔1752~1800年〕
22代王。在位は1776~1800年。朝鮮王朝時代後期の名君。たぐいまれな知性と教養を持ち、奎章閣(キュジャンガク)という王室図書館を拠点に様々な政治改革を行なって成果をあげる。非業の死をとげた父(思悼〔サド〕世子)の名誉回復にも力を注いだ。
成宗(せいそう/ソンジョン)
〔1457~1494年〕
9代王。在位は1469~1494年。7代王・世祖(セジョ)の孫。12歳で即位したために世祖の正妻だった貞憙(チョンヒ)王后の垂簾聴政を受けたが、成人してから政治的手腕を発揮。特に、朝鮮王朝の法体系を決定づけた『経国大典』を1485年に完成させている。
世祖(せそ/セジョ)
〔1417~1468年〕
7代王。在位は1455~1468年。首陽大君(スヤンデグン)という名でも知られる。4代王・世宗(セジョン)の二男で、6代王・端宗(タンジョン)の叔父。大変な野心家で、結局は端宗を脅して玉座に座る。その後は、端宗を復位させようという動きを徹底的に封じ、それを計画していた官僚たちを根こそぎ惨殺した。さらに世祖は、端宗が生きていると復位の動きがやまないと警戒し、端宗を上王から庶民に降格させたうえで死罪にした。
世宗(せそう/セジョン)
〔1397~1450年〕
4代王。在位は1418~1450年。韓国の小学校の校庭にかならず銅像があるほどで、朝鮮王朝最高の聖君と評される。幼い頃から読書が好きで、病気になっても本だけは離さなかったと言われる。王に就いてからは善政を行ない、民族固有の文字である“ハングル”の創製を主導。多くの優秀な学者を育てたことでも功績が大きい。
宣祖(せんそ/ソンジョ)
〔1552~1608年〕
14代王。在位は1567~1608年。朝鮮王朝で初めて庶子出身の王となった。学問的には優れていたが、1592年に豊臣軍が攻めてきたとき、真っ先に都を逃げ出して庶民から嘲笑を買った。また、後継者問題でも火種を残してしまった。
太宗(たそう/テジョン)
〔1367~1422年〕
3代王。在位は1400~1418年。朝鮮王朝を建国した李成桂 (イ・ソンゲ)の五男で名は芳遠(バンウォン)。1398年に起こった“第1次王子の乱”で世子(セジャ)に決まっていた異母弟の芳碵(バンソク)を殺して王位継承者の地位を確保。1400年の即位後は朝鮮王朝の基盤を整備し、強力な王権を確立した。1418年に息子の世宗(セジョン)に王位を禅譲して上王となり、軍事を掌握して権力を維持した。
端敬(たんけい/タンギョン)王后
〔1487~1557年〕
11代王・中宗(チュンジョン)の最初の正妻。クーデターで中宗が王に上がるとき、不安にかられた夫を精神的に支えた。しかし、叔母が燕山君(ヨンサングン)の正妻であったことが問題となり、廃妃の憂き目にあった。
端宗(たんそう/タンジョン)
〔1441~1457年〕
6代王。在位は1452~1455年。5代王・文宗(ムンジョン)の長男として、わずか11歳で王となる。1455年、叔父の世祖(セジョ)に脅(おど)かされる形で王位を譲り、上王となるも権限はなかった。復位の動きを警戒した世祖は端宗を庶民に降格させた後、1457年に殺害した。