日本語読みで引く人物事典5〔し〕編

朝鮮王朝の歴史を彩った重要人物を網羅した人物事典です。日本語の音読みで引けるようになっており、漢字を音読みにして検索してください。今回は〔し〕を取り上げています。

〔し〕

思悼(しとう/サド)世子
〔1735~1762年〕
21代王・英祖(ヨンジョ)の息子。幼い頃から聡明で後継者としての期待が高かった。しかし、精神的な重圧に耐えきれず、素行が乱れた。英祖の逆鱗(げきりん)に触れて自決を命じられた。従わないでいると、米びつに閉じ込められて、8日目に餓死した状態で発見された。

粛宗(しゅくそう/スクチョン)
〔1661~1720年〕
19代王。在位は1674~1720年。政治的には業績が多く、農地の整備と商業の奨励を行ない、本格的な貨幣鋳造事業も実施。人々の生活水準の向上に尽くした。その一方で、王妃や側室の間で起こった争いの原因をつくっている。

淑嬪・崔氏(しゅくびん・さいし/スクピン・チェシ)
〔1670~1718年〕
19代王・粛宗(スクチョン)の側室。時代劇『トンイ』のモデルとなった。宮中の下働きをしているときに粛宗に見初められて側室になる。1694に王子を産んだが、それが後の21代王・英祖(ヨンジョ)である。

純元(じゅんげん/スヌォン)王后
〔1789~1857年〕
23代王・純祖(スンジョ)の正妻。実家の安東(アンドン)・金(キム)氏が重職を独占する際に重要な役割を果たす。また、25代王・哲宗(チョルチョン)を即位させるために暗躍し、王室の権力をほしいままにした。

純祖(じゅんそ/スンジョ)
〔1790~1834年〕
23代王。在位は1800~1834年。父の22代王・正祖(チョンジョ)が亡くなったあとに10歳で即位したために、21代王・英祖(ヨンジョ)の継妃だった貞純(チョンスン)王后の垂簾聴政を受ける。その後も正妻の純元(スヌォン)王后の実家である安東(アンドン)・金(キム)氏の一族に政治の実権を握られてしまった。

純宗(じゅんそう/スンジョン)
〔1874~1926年〕
27代王。在位は1907~1910年。26代王・高宗(コジョン)の退位にともなって王位に就いたが、すでに日本による植民地化は避けることができず、1910年に朝鮮王朝は消滅。結局、朝鮮王朝の最後の王となってしまった。

昭顕(しょうけん/ソヒョン)世子
〔1612~1645年〕
16代王・仁祖(インジョ)の長男。1637年に人質として清に連行された。8年後、ようやく人質から解放されて帰国したが、外国にかぶれたことを理由に仁祖から疎(うと)まれ、わずか2か月後に急死。葬儀も仁祖によって異様なほど冷遇された。

昭憲(しょうけん/ソホン)王后
〔1395~1446年〕
4代王・世宗(セジョン)の正妻。名家の出身で、13歳のときに世宗と結婚した。性格が温和で、王妃にふさわしい女性だった。世宗との間に10人もの子を産み、そのうちの8人は男子だった。ただし、世宗の父の太宗(テジョン)は、彼女の実家が外戚として力をつけすぎたことを警戒して没落させた。

神懿(しんい/シンイ)王后
〔1337~1391年〕
李成桂(イ・ソンゲ)の最初の妻。高麗王朝の武将として出世街道を突き進む李成桂を支え続けた。2人の間には六男二女がいたが、息子は上から芳雨(バンウ)、芳果(バングァ)、芳毅(バンイ)、芳幹(バンガン)、芳遠(バンウォン)、芳衍(バンヨン)だった。このうち、芳果と芳遠が王になっている。彼女自身は朝鮮王朝が創設される1年前の1391年に亡くなった。

仁元(じんげん/イヌォン)王后
〔1687~1757年〕
19代王・粛宗(スクチョン)の継妃。仁顕(イニョン)王后の死去にともなって粛宗の正室に迎えられた。時代劇『トンイ』でも終盤から登場し、粛宗の後継者問題でも重要な役割を演じていた。

仁顕(じんけん/イニョン)王后
〔1667~1701年〕
19代王・粛宗(スクチョン)の正妻。粛宗が張禧嬪(チャン・ヒビン)を寵愛したために、1689年に廃妃となってしまうが、1694年に復位。しかし、病弱で子供を産むことができず、1701年に34歳で亡くなった。時代劇『トンイ』では慈愛に満ちた王妃として描かれている。

申師任堂(しん・しにんどう/シン・サイムダン)
〔1504~1551年〕
芸術家。“良妻賢母の鑑”とも言われる。幼い頃から絵画や詩歌で才能を発揮。虫を描いた紙を庭で干していたら、鳥が本物と勘違いして食べてきたという。今では、韓国の5万ウォン紙幣の肖像画になっている。ちなみに、5千ウォン紙幣の肖像画は息子の李栗谷(イ・ユルゴク)。親子で紙幣の肖像画になっているのは世界的にも珍しい。

仁粋(じんすい/インス)大妃
〔1437~1504年〕
7代王・世祖(セジョ)の長男・懿敬(ウィギョン)の正妻。懿敬は世子だったので、本来なら王妃になるはずだったが、懿敬が19歳で夭逝したために叶わなかった。しかし、彼女が産んだ二男が9代王・成宗(ソンジョン)となり、王の母にあたる“大妃”となった。

仁祖(じんそ/インジョ)
〔1595~1649年〕
16代王。在位は1623~1649年。即位前は綾陽君(ヌンヤングン)と言われた。1623年、光海君(クァンヘグン)を追放して即位したが、反乱なども起こり、苦しい王政を強いられた。1636年に清に攻められ、1637年に降伏。清の皇帝の前で頭を地面につけて謝罪するという屈辱を受けた。

仁宗(じんそう/インジョン)
〔1515~1545年〕
12代王。在位は1544~1545年。11代王・中宗(チュンジョン)と章敬(チャンギョン)王后との間に生まれたが、母が出産後すぐに亡くなったので母の愛を知らずに育った。在位わずか9カ月で急死したが、継母の文定(ムンジョン)王后による毒殺説が流布している。

神徳(しんどく/シンドク)王后
〔1356~1396年〕
李成桂(イ・ソンゲ)の二番目の妻。芳蕃(バンボン)と芳碩(バンソク)という二人の息子をもうけた。李成桂に働きかけて、芳碩を世子にすることに成功。ただし、1396年に40歳で世を去った。死ぬ間際まで芳碩の行く末を案じていたが、その2年後に芳碩は異母兄によって世子から下ろされて殺害された。

仁穆(じんもく/インモク)王后
〔1584~1632年〕
14代王・宣祖(ソンジョ)の二番目の正妻で、1606年に永昌(ヨンチャン)大君を出産。しかし、1608年に光海君(クァンヘグン)が王位に上がると、永昌大君は殺され、自身も幽閉されてしまった。1623年、クーデターで光海君が追放されると、光海君の斬首を強硬に主張。その願いはかなえられなかった。

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