貞純王后!政治を好き勝手に動かした恐ろしい王妃

不問となった罪

当時、素行の悪さが目立っていた荘献。その様子を見逃さなかった貞純王后は、荘献の素行の悪さを夫の英祖に報告していた。
それを聞いた英祖は息子を何度も叱りつけたが、最後には堪忍袋の緒が切れて自害まで命じた。しかし、荘献は許しを請うばかりだった。
怒りがおさまらない英祖は、息子を米びつに閉じ込めて餓死させてしまうが、後に息子を死なせてしまったことを後悔して「思悼世子(サドセジャ)」という尊号を贈っている。
貞純王后がなぜ思悼世子を嫌ったのか。それは彼女の父親が官僚たちの主流派閥だった老論派(ノロンパ)の一員だったことが影響している。
思悼世子には祘(サン)という息子がいた。思悼世子を陥れた老論派たちは、報復を恐れて祘の命を狙うようになった。しかし、それらはすべて失敗に終わってしまう。




無事に命の危機を乗り越えた祘は、1776年に22代王・正祖(チョンジョ)として即位した。彼は、父親である思悼世子を陥れた者たちを次々と処罰していった。しかし、貞純王后の罪は不問となった。
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