トンイの告発によって張禧嬪(チャン・ヒビン)の死罪が決定!

病弱だった仁顕(イニョン)王后が床に伏すようになったのは、1700年4月以降だった。からだに腫れ物ができて激痛に襲われた。病状は一向に改善せず、彼女は長く苦しんだ末に1701年8月14日に亡くなった。まだ34歳の若さだった。





罪に問われた張禧嬪

慕っていた仁顕王后が世を去り、粛宗(スクチョン)の側室だった淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)は、今まで溜まっていた感情を抑えられなくなった。この淑嬪・崔氏は時代劇『トンイ』の主人公トンイのことだが、彼女は仁顕王后を愚弄し続けた張禧嬪(チャン・ヒビン)に強い怒りを覚えた。
「絶対に許せない。このままで済ませるわけにはいかない」
淑嬪・崔氏は自分が知っていることをすべて粛宗にぶちまけた。そこには粛宗がまだ知らない事実も数多く含まれていた。
驚愕した粛宗は、仁顕王后の葬儀がひと通り終わったあとに、張禧嬪を厳罰に処す決意を固めた。
1701年9月23日、粛宗は次のような覚書を出した。
「内殿(王妃)が病をわずらった2年間、張禧嬪は1回もお見舞いにこなかったばかりか、本来なら“中宮殿(チュングンジョン)”と呼ばなければならないのに、“閔氏(ミンシ)”と名前で呼んでいた。さらには内殿のことを“邪悪な人だ”と評していたというではないか。それだけではない。就善堂(チソンダン/張禧嬪の住まい)の西側にひそかに神堂を建てて、いつも2、3人の怪しげな者たちと祈祷をして、おかしなことを続けていた。こんなことが許されるなら、一体どんなことが許されないというのか」




この覚書には粛宗の怒りが如実に込められていた。
それから2日後、粛宗は再び覚書を出した。
「罪がすでに明らかになったのに、もしもふさわしい方法が取られなければ後悔を残すことになる。真に国家のために、そして、世子のためにも、張禧嬪を自害させよ」
ついに粛宗は張禧嬪を厳罰に処した。
彼としては、迷いに迷った末の決断だった。なにしろ、張禧嬪は世子の生母であったからだ。
この事実は重く、死罪に反対する声が相次いだ。徐文重(ソ・ムンジュン)という高官も粛宗にこう申し出た。
「すでに罪人どもをとらえて国の法は守られています。ただ、張禧嬪の場合は寛大に許してあげてくださいませんか。世子のためにもそれが一番いいと思われますが……」
しかし、粛宗の気持ちは変わらなかった。
彼は強い王命を発して張禧嬪を死罪にした。

文=康 熙奉(カン ヒボン)
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