『七日の王妃』の端敬(タンギョン)王后と中宗(チュンジョン)の「別れる理由」とは?

復縁の話もあったが……

端敬王后は、住まいの裏の岩山にかつて自分がよく着ていた赤いチマ(スカート)を干し、“私はここで元気に暮らしています”と示しました。
これは「赤いチマ岩の伝説」とよばれ、韓国でも夫婦愛を示すよい話といわれているのですが……。
もとはといえば、中宗が夫としてだらしないから起こった話です。
端敬王后を離縁した中宗は再婚しますが、その継妃が1515年に中宗の長男を出産した直後に急死してしまいます。




そのとき、中宗と端敬王后の復縁が現実味を帯びました。中宗としても願ってもないことです。
しかし、最終的にクーデターを成功させた高官の大反対で実現しませんでした。
このときも中宗は指導力を発揮することができなかったのです。
結局、中宗は端敬王后を離縁したあとに一度も彼女に会うことができませんでした。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

『七日の王妃』の端敬(タンギョン)王后はどんな女性だったのか

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