読書経験がほとんどない
文字をまともに読むことのできない哲宗は、当然ながらあまり本を読んでいなかった。臣下たちに「今までどんな本を読んできましたか」と聞かれた彼は、中国の代表的な歴史書である『通鑑(トンガム)』の2巻と、儒教の修身や作法の教科書である『小学(ソハク)』の1巻と2巻を読んだと答えた。
それを聞いた臣下たちは、嘲笑した顔を隠すためにうつむいた。なぜなら、『小学』は子供用の書籍だったからだ。純元王后は、文章を学ぶなら何を読めばいいかと聞くと、重臣たちは歴史を簡単にまとめた『史略(サリャク)』や儒教の基礎聖典である経書(キョンソ)を薦めた。王族の男子であれば、そういった本は本来、幼いときに学ぶべきものだ。
そんな哲宗の無学ぶりは、純元王后や臣下たちをより不安にさせた。とにかく周りの者たちは、王に学問の重要性を伝えたが、今まで勉学をしてこなかった人が王になったからといって、いきなり博学になるわけがないのだ。
哲宗が王となってから2年後の1851年、彼は安東・金氏の娘を妻として迎えた。これにより安東・金氏の勢道政治(王の信任を得た人物や集団が政権を独占的に担うこと)が強くなった。その影響を一番受けたのが農民たちである。実際にどういうことが起こったかというと、政権側は農民たちの税の負担を重くして、洪水などの災害が起こったとしても何の対策も取らなかった。それにより、人々の生活が苦しくなったのは言うまでもなく、各地で反乱が起きた
このとき、朝鮮王朝は国内が混乱している場合ではなかった。かつて朝鮮王朝はキリスト教を弾圧していたことにより、西欧各国から糾弾されていたため、一刻も早く有効な外交手段を行使する必要があった。そんな状況の中でも安東・金氏は一族の繁栄だけを考えていて、民の暮らしを安定させようとはまったく思っていなかった。
純元王后は、「国を衰退させないためには民の力が必要だ」と言ったが、彼女が本当にそう考えていたかはわからない。その純元王后は1857年に世を去った。
もともと農民だった哲宗は、生活に苦しんでいる人々の姿を見て、何度も救済策を実行に移そうとした。しかし、重要な職は安東・金氏によって独占されていたため、彼は自らの親政を押し通すことができなかった。
王としての自分の力に限界を感じた哲宗は、酒や遊興に溺れてしまう。そんな贅沢な生活が彼の身体を蝕(むしば)んでいき、体調を崩した哲宗は1863年に亡くなった。
文=康 大地(コウ ダイチ)
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