“虎”と称されるほど勇猛だった男/朝鮮王朝の人物と歴史42

金宗瑞(キム・ジョンソ)といえば、首陽(スヤン)大君が6代王・端宗(タンジョン)に圧力をかけていたとき、その端宗を守り抜こうとした男だった。今でも「忠臣の鑑(かがみ)」として記憶されている。





次代の王を補佐できる逸材

元来、金宗瑞は朝鮮王朝最高の聖君と称された4代王・世宗(セジョン)に見出された逸材である。その金宗瑞を育てたのが、朝鮮王朝の建国時から政治家として活躍した黄喜(ファン・ヒ)だった。
世宗は黄喜に絶大な信頼を寄せていた。しかし、老年の黄喜が長く王政を補佐するのは難しいと考えていた。
なにしろ、黄喜は1363年の生まれだった。1397年生まれの世宗よりも34歳も年上なのである。
朝鮮王朝の長い安泰をめざした世宗は、黄喜に自分の手足となる後継者をつくらせて、その後継者に次代の王を補佐させようとした。
黄喜が目をつけたのは、背は小さいが勇敢で頭も切れる金宗瑞だった。
黄喜に実力を買われた金宗瑞は、国境の防衛を任され異民族の撃退で大きな成果を生んだ。その後、金宗瑞は軍の要職などを歴任するようになり、そこでも目覚ましい活躍を続けた。




しかし、優秀な金宗瑞にも欠点があった。それは、私生活のだらしなさである。金宗瑞は朝廷ではいつも酒のにおいを漂わせ、公費の無駄遣いまでしていた。師である黄喜はその度に彼を呼び出し、徹底的に叱りつけた。
周囲の人たちは、要職に就いている金宗瑞に厳しい黄喜を批判するようになった。だが、黄喜は金宗瑞の育成のためだと言い放ち、常に彼に対して厳しく接し続けた。その甲斐があって、金宗瑞は名実ともに立派な人物へと成長していった。
弟子の実力を認めた黄喜は、自分の地位を託して引退した。彼ほど王朝の明日を案じた高官は他にいなかっただろう。
1450年、世宗は体調を崩し死の淵にいた。
病床の世宗には心残りがあった。それは、「自分が死ねば王位をめぐって争いが起こるのでは……」という心配だった。
世宗は金宗瑞を筆頭とした重臣たちを集めた。そして、彼らに後の王をしっかり補佐するように頼んだ。王からの直接の付託を受けるほど、金宗瑞は世宗から信頼を受けていたのである。




男気にまさる金宗瑞が意気に感じないわけがない。
世宗の後を継いだ5代王・文宗(ムンジョン)が即位してわずか2年あまりで亡くなったあと、文宗の幼い息子が王位に就いた。11歳の端宗である。
金宗瑞は世宗の二男である首陽大君が王位を狙ってくることをすでに読んでいた。
そこで、金宗瑞は首陽大君を初めとした王族をきびしく警戒するようになった。特に、王族に対し、理由もなく人を集めることを禁止した。これは、端宗の王位を狙った反乱を起こさせないようにするための措置であった。
この決定を受けた首陽大君は、発案者である金宗瑞に怒りをあらわにした。こうして、金宗瑞と首陽の対決は避けられなくなった。
1453年、金宗瑞は首陽大君本人の奇襲を受けて絶命した。“虎”と称されるほど勇猛だった金宗瑞もすでに還暦を過ぎていた。一方の首陽大君はこのとき36歳。年齢の差が勢いの差になってしまった。
金宗瑞が亡くなった2年後、端宗は叔父の首陽大君に王位を奪われた。金宗瑞の願いはついに叶わなかったのである。

文=「チャレソ」編集部

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