米びつに閉じ込められた世子
英祖は荘献を呼び出して度々しかりつけた。荘献は精神的な重圧を強く受けるようになり、これまで以上に酒に溺れて問題を起こした。
1762年、官僚の一部が荘献の問題点を10箇条にまとめて英祖に提出し、厳罰に処するように願い出た。
息子への怒りを抑えきれなくなった英祖は、荘献に自害を命じた。その場には、荘献の10歳の息子が同席していた。息子は目に涙を浮かべながら嘆願した。
「どうかお父上をお許しください。命だけはお助けください」
可愛い孫の頼みであろうとも、英祖の気持ちを変えることはできなかった。
しかし、荘献は父の命令を聞かなかった。いつまでも自害しないのを見た英祖は、業を煮やし荘献を庶民に格下げした後に、米びつの中に閉じ込めてしまった。
監禁された荘献には一切の水も食料もわたされず、ついに8日目に餓死している状態で見つかった。
王である父が後継者の息子を死なせるというむごい結果になった。
時が経ち、英祖は一瞬の怒りに身を任せて息子を殺したことをひどく後悔した。荘献の死を哀悼するという意味を込めて、彼に「思悼世子(サドセジャ)」という名を贈ったのがせめてもの親心だったのだろうか。
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