朝鮮王朝の最高の名君と讃えられた4代王・世宗(セジョン)の正室は昭憲(ソホン)王妃である。この夫婦は8男2女に恵まれた。長男は5代王となった文宗(ムンジョン)だが、二男は首陽大君(スヤンデグン)であり、三男が安平大君(アンピョンデグン)だった。
王位に野心を燃やす首陽大君
首陽大君(スヤンデグン)は1417年に生まれた。
その弟の安平大君(アンピョンデグン)は1418年に生まれている。
二人は1歳違いの兄弟である。
世宗は文宗を王位継承者として重んじたが、同じように首陽大君と安平大君にも期待をかけた。それは、文宗をしっかり補佐してほしいという気持ちからだった。
世宗は、首陽大君と安平大君の二人に重要な仕事をまかせた。天文観測やお経の翻訳、世宗の陵の場所を決めることなど、国家の重要事業を二人が一緒に管理するようにしたのであった。
長く一緒に政治に参加していた二人だったが、兄弟愛よりも競争心が強かった。
武人的な資質を持っていた首陽大君に対して、安平大君は詩、書、画に長けた芸術家だった。
特に書は中国までその名がとどろき、彼の書がほしいと願う人が多いほどであった。それだけに、安平大君の自負心も兄である首陽大君に負けなかった。
二人の大君の力が大きくなるにつれて、彼らのまわりには人が集まり始め、彼らがライバル的な関係になると、王宮では首陽大君派と安平大君派ができて、対立するようになっていった。
1450年に文宗は世宗の王位を継いだが、わずか2年で亡くなった。
文宗の長男であった端宗(タンジョン)が6代王となった。
しかし、まだ11歳だったので、後見人が必要だった。その筆頭が重臣の金宗瑞(キム・ジョンソ)である。
金宗瑞を含む大臣たちは、王位に野心を燃やす首陽大君を牽制するために安平大君を頼った。なにしろ、巨大な力を持っている首陽大君の存在は脅威であり、対抗できる存在は安平大君しかいなかった。
大臣たちに支えられて安平大君は兄の首陽大君を越えるほどの勢いを得た。このように宮廷の力が安平大君に集まっていたものの、それでも首陽大君は虎視眈々と王位強奪の機会をうかがった。
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イ・ヨンこと孝明世子(ヒョミョンセジャ)はなぜ早死にしたのか